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農村を活性化させる為には?

もうお金じゃないでしょう!充足第一主義!

>尊敬する農家の先輩はこれからの農家は情報公開が必要だとつねづね言
われます。
確かに農家の社会は狭く、「他より良く」という風潮があります。そんな
訳で良い方法というのはなかなか出回りません。(そして農薬メーカーの
情報を鵜のみにしてしまう)

他より良くと、なってしまうという農家の社会。でもスーパーに並べば一緒なんて、なんて社会だろう。他より良くという意識は、企業においてもそうですね。企業秘密なんて言葉があります。でも不信感がどんどん高まっている今の現状を見れば、〇〇は使ってませんが、何を使っているかは、企業秘密なんて言われても信用なんてできたものじゃないと思います。

人間本来の豊かさを取り戻せるはずの農でさえ、そんな枠組みにあるというのが、とても残念です。そもそも、他より良くっていう意識自体どこかおかしいという気がしています。お互い競い合うことで商品の質が上がっていくというのは、本当なのでしょうか。お互い協力しあってよりいいものを作っていくという意識の方がずっといいものができるはずだと思います。

それがうまくいかなかったのは、普通の人たちの声が届かなかったからだと思います。そして、よりいいものを期待されなかったから。期待する声が届かなかったからだと思います。

そんな期待を感じられないなかで、頼るものがお金だけになってしまったというのは理解できる気がします。身勝手な消費者たちの「ため」に、という意識も持ちづらかったのだろうと。

>私自身は将来的に「お金」の価値が低くなる事が現状のあらゆる問題点
を解決しうるものだと思っています。

お金の価値はまだあると思います。でもお金じゃないものを求め始めていると思います。充実感や課題を求めて、でもそれが得られないから、無駄にお金を使っているのだと思います。

意識を変えるというのは、難しいことだと思います。ただ、何が本当に楽しいかは伝わると思います。がんばって伝えていきましょう。


立石裕美


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耕地面積と出荷農家について

皆農業など、農業体験の話が続いておりますが、「現在の農業問題ってなんだろう」と検索してみました。
リンク

この中で改めて驚いたことは、日本の農業実態は「異常に減少している」という実態でした。
農業用地が1960年から1999年の40年間に120万ヘクタールも減少しているということ、現在の耕地面積が480万ヘクタールとしたら、20%の減少率です。
農産物を出荷している農家数は現在250万戸であり、これは1960年から比べて約5割も減少しているという実数です。

市場経済では、農業は歯が立たなかったということを目の当りにしてしまいます。農政も当然ながら「減反政策」や「セーフガード」など手を打ってきていますが、誰が見ても有効な政策とは言い難いことです。
農業に帰ろうという気持ちだけでは、何か大きなものが欠けているような気がしてなりません。


橋本正雄


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おいしく・たのしく・ありがたく

去年、農家参加のイベント(主催は主婦)で
「おいしく・たのしく・ありがたく」というのをやりました。
内容は前半が大試食会(農家がそれぞれ自分の農産物を料理する。)
来られた方は参加費(1000円)を払い、後は食べ放題。
後半が「おいしく・たのしく・ありがたく」のワークショップでした。
ワークショップではそれぞれ、おいしく食べた時、たのしく食べた時、
ありがたく食べた時を話し合いました。
「おいしく」「たのしく」では「久しぶりに食べた肉」とか、「遠足の
時」などわりかしスムーズに出たのですが、「ありがたく」になった時、
農家と食べる側の意見が少し食い違いが出ました。

今の日本で「ありがたく食べる」というのが非常に少なくなっている
と感じ、「ありがたく」というのがキーワードになってくると思った
ものです。まあ農家が押しつける「ありがたく」は違うと思いますが・・

農業をやる前はバーテンとホテルの支配人をやってました。
そんな訳で接客の視点から農を見る事が出来ています。
農をやり始めてから、色々な気付きがありました。こんな季節の移り変
わりを実感出来る仕事も少ないと思っています。

無農薬栽培をしていますと大串さんの言われる通り害虫と雑草が一番の
問題になりますね。自分の分かる範囲で答えていきたいと思ってますの
でうちのHPに遊びにきて下さいね。時々、風来のHPにそんな相談は
寄せられます。
ちなみに今年は青虫退治にヨーグルトを使いました。

尊敬する農家の先輩はこれからの農家は情報公開が必要だとつねづね言
われます。
確かに農家の社会は狭く、「他より良く」という風潮があります。そんな
訳で良い方法というのはなかなか出回りません。(そして農薬メーカーの
情報を鵜のみにしてしまう)

情報を公開して、色々な人が野菜や食を育てる。そのことによって個々が
農・食の大変さ、楽しさが分かる。そして食に感謝していく。
そうなればと思います。

西田栄喜 


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利益追求企業は見透かされ信用されていない。

浅野さんや皆さんの食品に関する投稿をみて、改めてスーパーや生協の販売店に行って見ました。
「商品に信用が置けない」と感じる事も少しわかりました。確かに有機野菜とか表示があってもピンと来ないですね。牛肉の大安売りを大声で叫ぶ店員にもかなり違和感を感じました。
浅野さんがおっしゃるように昔の八百屋は少し感じが違っていた事を思い出します。それにしても一体なぜ顔が見えないのか?信用できないのか?店によっては(特に生協などは)生産地の具体的な表示をしたりしていますが、それでもです。
これは、食品を販売しているの店の根本が「利益追求企業」であってその土台の上に(木に竹を継いだように)新たな商品の方針を継ぎ足しているのが読めるからだと思います。商品の表示の工夫程度では見透かされているということでしょう。企業の根本が替わらなければ信用は得られないと感じました。この会議室での「リンゴ・ワックス疑惑」も、もっともな事です。
企業の根本が替わるとは、「利益追求」の上に信頼やまごころなどの「本源価値」を継ぎ足すのをやめて、本源価値に立脚した企業形成をベースにした上で商売を成立させるような転換です。

逆に生協は苦戦しているようです。協同組合の根本は本源価値に近いと感じますが、手法が表層的というか、組合としての結束力がとても低い。私が行った店舗では見るに耐えない野菜が売られていました。諦めたように無造作に並べられています。ただし生協はそれぞれ、組合単一組織の連合体ですから一言では言えません。一部に、ダイナミックな直販戦略でかなりの成功を納めている生協もあります。ただ大半は、スーパーに歩み寄ったような店舗販売が、その中途半端さ故に敬遠されているようです。

ひょっとしたら流通業界はもう多くの利益を期待できない状況にあるのではないでしょうか?かつての販売拡大時はともかく、いまや流通に関するノウハウも知れ渡り、スーパー同士の潰しあいの世界です。地域で生き残ることが最大の目標です。「1円を稼ぐ」ためのコスト削減はもう限界まで行われています。
こんな状況ですから、もしも「すこし高くても気心の知れた人達が作った野菜がいい」という声に応える流通スタイルであれば、既存の流通業界を凌ぐ可能性もあるように思います。


 


田村正道


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徴農制

>高校ぐらいの時期に1年間の農業実習を義務付けるというようなことが考えられるのではないでしょうか?
大賛成!!
なんか、最近若者の規範が緩んでるってことで、「徴兵制を行ったらよい」なんて過激な意見を聞いたりしますが、「なんだかな~?」なんて思ってるところに山田さんの建設的な意見。
若者に農業の義務付け。おもしろいと思います。

都会に住む若者は、実際に農業の事を知らないと思うんです。(僕もしらない人の部類に入るのですが…)そこで、パワーと暇を持て余している若者諸君に、農業のおもしろさ、つらさ、可能性を大いに感じてもらいたい、と思います。

そこで、超突発的に考えた「徴農制」を。
1.正当報酬あり(20万/一人・一年)
2.高校のカリキュラムも一日二時間ほど行う(定期考査あり)
3.それを教える先生もともに働く(20万+講師料/一人・一年)
4.高校単位でひとつの村に集団移動
5.農家にホームステイ

国が行わなくてもNPOなんかでもいけるかも。地域活性化にもつながるだろうし、そこで作られた作物は、母体の高校の給食で食べてもらう。余るようだったら中学校の給食にまわす。いろいろプラスの可能性があると思うのですが…(甘いかな?)

なんてことを勢いのあまり書き連ねてしまいましたが、実際の高校生不在の議論ではよろしくないと思うので、ちょっと○サイトで聞いてきます。

ゲン

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農と人のかかわりあい

>「国民皆農論」―人の営みの基本に農を据え、すべての人が農に携わるという考え方
 この言葉は初めて知りました。私が農業をしている理由として、この事は大いに当てはまっているように思います。農家だけが農にかかわればいいというものじゃないと、私は思ってます。
 
>農作業をしている時、もっと人手があれば違ったやり方も出来るのにと思うことがあります。多くの人が農に携わるようになれば、この間議論されているプロセスの取り戻しや、環境負荷の軽減、自然や生命との交歓、教育的効果など、多くの要素を包摂して実現できるように思います。
 確かにそうですね。農にふれる人が増えることでもっと広がって、さらに全ての人々が農をより身近なものに感じることが出来れば、新しい農の世界が創り上げられていって、可能性も広がって行くでしょう。

>『私は農というものを職業と捉えたくないのだ。人間の営み、と捉えたいのだ。』
 私は職業の一つとして“農業”をしていますが、実際この考え方を基本としています。昔はこれが当たり前であったし、今でもそうであるはずだと思っています。
 
>『これを職業にすると~大地から離れてゆく感覚さえ起こる。』
 何だか虚しい感じもありますが、何となくそんな感じはある気がします。
 皆して農を体感して、課題を共有し合っていけるなら、「これは自分の仕事」と言って割り切ってしまうんじゃなくって、より純粋に自然・大地を感じられるようになるのかもしれないです。

 


小山瑠里

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八百屋さん

>生産者と消費者の間に他人が介在すると信用度合いが低くなりますよね.

昔の八百屋さんや魚屋さんはどうだったでしょうか。
「奥さん、旬の水菜が入ったよ! ハリハリ鍋にしたら美味しいよ!」
八百屋のおっちゃんが朝、市場で仕入れた野菜を自信を持って売る。今、何が旬で、何が美味しくて、何がお得か、どうやって調理したらいいのかを教えてくれる。
その上「最近、○○さんちのおばあちゃん、腰を悪くして△△病院に通ってるらしいよ。あそこの先生は良いからねえ………」と井戸端会議の花が咲く。良く言えば地域生活情報の発信地とでも言えるかも知れません。
お金が足りなっからまけてくれたり、掛売りしてくれたり。
売る人と買う人との顔と顔とを交えての信頼関係があったと思います。
野菜や魚だけでなく、電気屋さんや雑貨屋、文房具やさんで物を買う時にも同じような買う人と売る人との信頼関係がありました。

今、買うものに信用が置けないのは単に生産者の顔が見えないと言うだけでなく 
流通システムの効率化(スーパーマーケットや量販店)のために売る人の顔も見えなくなっているからだと思います。


浅野信夫 


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皆で農をするではなく、皆で農を負担する。

皆農論のココロは注目すべきですね。
実際、ガーデニングも一過性のブームではなく定着した感がありますし、市民農園もかなりの需要が見込めるとの事です。

ただ、現状はまだ遊びというか、レジャー的な面が強く市民農園で野菜を作る体験をして、食卓に上るのは大半がスーパーの食材というのが実際でしょう。
農に向かう好ましい傾向に乗って、次の段階になれば良いのですが…


そのためには、農産物の販売システムの抜本的な変化が必要だと感じます。
産直というのもひとつの形態だと想いますが、その場合、特殊な農作物や農法でないと通用しません。
過半の普通の農作物をどうやって販売するかが問題の中核。
また、農地を酷使する産地でしか専業農家が成立しないような現状から脱し、産地以外でも普通に専業農家がやれるようにならないとダメでしょう。
1ha程度の田畑を持っている農家が、裕福とまではなくても、町役場や農協でない仕事を分け合っている状態の職員程度には稼げる状態にならないと、ブランド産地以外の専業農家はなくなると想います。

一定量購入の義務化、食管法の再評価(厳格化)など、時代に逆行する感じもしますが、そのような形も真剣に考えるときだと感じます。
もちろんそれは上から押しつけられるとかでなく、市民側から(特に)都市側からやっていくことだと想います。
農を皆が実際にするという「皆農」ではなく、現状の市場システムで測った場合価値が低い農を皆が(いやな表現ですが)負担する意味においての「皆農」。
市場社会のバブル期とその崩壊の間である現在において必要だと感じます。

 


佐々木健二


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都会生活が生みだす関係形成能力の弱さ?

>様々な問題で、人と人との関係(自分と周りの人との関係)が共通して深く関わっているように感じました。自分と周りの人との微妙な距離間(距離感)という観点です。
>知らない人への警戒心なのか、そもそも根本的に関心を持たなくなったのか、関心が有ってもアプローチできないのか、色々理由が考えられると思います。

過去の地域共同体において、人と人との関係がどうだったのかを考える時、身近なところで思い当たるのが、人なつっこい地方出身の人達である。
特に島出身の人は、警戒心が弱く、比較的誰とでも関係形成ができる様に見える。

島社会では、現在では崩壊した地域共同体の有り様が、少なからず残っている様に思う。島という完結した社会では、現在でも、お互いのことを半ば必然的に理解し、共に暮らしているのではないだろうか?
そこで養われるものは、自分達の親や祖父母を通して周囲との関係性を築く能力なのかもしれない。

一方で、都市に住む人達は、その土地で暮らすことに必然性はなく、その気になればいつでも移住できる。親戚が近くにいない場合も多くあるだろう。
そのことが、親自体の地域での関係忌避に繋がり、子供は親を通して周囲との関係性に触れることが出来ないまま過ごしていくのではないだろうか?
仮に会社内での関係形成はあっても、都市部では、その実態を子供に見せる機会は、非常に少ない様に思う。

その結果、子供達は廻りとの関係性に気付きにくい環境の中で、同世代だけの関係構築に留まり、周囲の人間との様々な関係形成能力を習得することなく、社会に出ていくことになる。

かなり荒っぽい組み立てだが、周囲との関係形成は、親を含めた身近な人間関係から学んでいくという視点は、誰にも共通するものだと思うのですが、皆さんはどう思われますか?

 


前山薫


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食からも人を感じたい

最近の食への不安感の高まりから、農家がもっとプロ意識を持たないといけない、というような新聞記事を見ました。

「現代農業の農産物の品質を考えないと、農業の生き残る道は無いと思います。消費者が幸せにならない農業は、何れ崩壊します」

HPでこんなメールが紹介されているのを見ました。何かおかしいなと思いました。佐々木さんが、

>消費者=王様・労働者=奴隷の図式は農でも変わらず、消費者は気まぐれ。

と言っていますが、本当にそうですね。でも消費者は気まぐれというのは、少し違うのかなと思いました。感謝の心を持たなければいけないと言っても、持てないようになっている?と思うからです。

食についての関心が高まっているというのは、そうだと思います。ただ、スーパーに並んでしまえば、どれも同じに見えてしまう。スーパーに並んでいる野菜達も、広告なんかでよくよく見てみれば、〇〇産の絶品野菜だったりする。でもあそこに並んでしまえば、同じ。少しでも安いものってなってしまう。(三澤さんが言われているように、イメージできたらいいのですが)農家の方が苦労されていても、それが伝わってこない、それこそが問題だと思います。品質ではなく。

無農薬野菜と言われても、なんとなくですが、信じられないではないですが、生産した農家のおじさんから買うのとでは全然違うと思います。どうやって作るのか、何が美味しいのか。それを直で聞くことができるというのは大きい。
そういう意味でHPで紹介されている、作り手の苦労とかこだわりを感じさせる食品なんかに可能性を感じています。明日、メーリングリストのオフ会で、〇サイトの「源さんキムチの風来」さんのキムチ鍋をするのですが、とっても楽しみです。こんな喜びを体感していくことも、長谷さんが言われている

>生産者と消費者を結び交流する企画、試み

の一つに当たるかなと思います。

生産と消費が同じ。それがどうして出来ないのか。農家のおじさんたちもどんな人が食べてくれているか分かった方が、きっともっと美味しいものをつくろ!って思うと思う。(佐々木さんが前に提案していた家と職場が同じっていうのも近いかな?)それぞれが分断されて、それが本当に良かったのか。

信頼できる人と共に生きていくこと。そんな必要性を感じます。それが、みんなが求めている生活なのかなって。松本さんが言われていたように刹那的に、生活水準を下げようといわれるとちょっとピンとこないのですが、知り合いが作っているものだったら、素直にちょっと位高くっても、そっちを買お!と思う。そんな思いがどんどん広がっていけばいいと思います。(だから、農業を実際にされている方と、ここで真剣に考えていきたい)



立石裕美


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農も万人が担う?

>ただ、トータルで考えれば「農」は有益どころか、必須なもの。
業としてではなく、自分達の地域・共同体・文化を護るためのもの、業を超絶したものとして接する方が結局は正解だとも感じています。
「農もまつり」ぐらいの感覚です。<

佐々木さんの投稿を読み、社会の基盤としての農を改めて考えさせられました。

論旨からそれるかも知れませんが、「国民皆農論」というのを御存知でしょうか。人の営みの基本に農を据え、すべての人が農に携わるという考え方です。
農作業をしている時、もっと人手があれば違ったやり方も出来るのにと思うことがあります。多くの人が農に携わるようになれば、この間議論されているプロセスの取り戻しや、環境負荷の軽減、自然や生命との交歓、教育的効果など、多くの要素を包摂して実現できるように思います。
私自身は、すべての人が農に携わる必要は無いと思っていますが、何らかのヒントがあるような気がして、皆農論がいつも頭の片隅にあります。

皆農論に触れた記事を見つけましたので、紹介させてください。

>今日は、猫の額程の田圃の田植えをした。生暖かい水の中に入って苗を植えていく作業はなかなか気持の良いものである。農作業は程よく、そう自家用程度のものを作る程度のしておくと、実に恵まれた感のする働きである。大地や自然が愛おしく感じられる。ところが、これを職業にすると、こんな割の合わないものはないし、大地から離れてゆく感覚さえ起こる。私は農というものを職業と捉えたくないのだ。人間の営み、と捉えたいのだ。福岡正信さんは、国民皆農論という事を言ったが。私もその考え方には理想として賛成している。10アールの田圃があれば家族が一年に食べる米と麦は十分賄える。福岡さんの計算によると日本の農地を全国民に割り振ると、一家族あたり30アールほど持てるということを前に読んだ気がする。ただその時、産業構造がどうなっているのかは、分からないのだが。<(「芭蕉全句鑑賞」より:
リンク)


馬場真一


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市場に替わる『運転手たち』

現在問題視されているCO2濃度でいうなら、かつて280ppmで安定しいたものが19世紀頃から上昇、1999年に369ppm、(ハワイの観測所)21世紀末には280ppmの倍に至ると予測されています。(『地球持続の技術』:小宮山宏著 岩波書店)
 これを、かつての安定した循環状態をどれだけオーバーしているかのスピードの指標として見た場合、CO2を抑制する「京都議定書」の扱いを巡ってアメリカの強行な姿勢と日本政府の腰の引けた対応は、スピード違反取り締まりの難しさを示していると思います。

 技術の立場からは、例えば化石燃料消費抑制のために太陽エネルギーをはじめとするバイオマスエネルギー利用やエネルギーを循環させる技術などが提案されています。(その多くは集約的な効率をめざすものではなく、むしろ人手がかかる地域分散型であることも示唆に富んでいます。)また、このサイトでもそうですが、市井の人々からも過剰消費の問題が意識されるようになっています。

 ではなぜ循環の見通しが立たないのか?
 それは市場に替わって、生産と消費をまとめる「担い手」がいない為ではないでしょうか?
(正確にいうと、市場は盲目の運転手となって生産と消費を暴走させているだけですから「まとめている」とは言えないかもしれませんが・・・)

 衣服や食料、建築をはじめ、殆どのものが市場で扱われているなかで、市場に替わってものを扱うのは、始めはおっかなびっくりかもしれませんが、自信をもっていいと思います。
 あらたな農業にチャレンジするのも、外食産業をはなれた実践(マサヨシさん)も、市場に替わる「運転手」として信頼できると思うのです。

田村正道


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その後 思い出した事。

奈良の田園を訪れる機会がありました(10月21日)。子供達とその保護者の方々と稲刈りに行ったのです。その時にもう少し最初の私の便りに付け加えておきたかった何か漠然としたモヤモヤした事が具体的に判りましたので追申させていただきます。それは、我々が失った物⇒取り戻したい物(敢えて取り戻さなくてはならぬ物とはしません~肩に力が入り過ぎると疲れてしまうので)に付いてです。
 あまりにも経済効率第一に繁栄を求めて来た結果、生産と生活の場の分離がもたらした産物(大量生産方式では必然的にそうなるのでしょうが・・)なのか「何物に対しても素朴に感謝する気持ちを我々はこの30年間で失ってしまった」と思った事でした。

 例えばこんな場面からです。稲刈りの後、旧式の機械を使って大人だけで分担して脱穀(事前に別に刈って干していた稲で)をしました。あるお父さんが指導員の教えに従って見様見真似で作業をしていたらその方の4歳になる子供さんが「お父さんケガしないで」と声かけしそして作業が終了したら拍手をしました。この子はたぶん自身の父親が労働しているところを初めて見そしてその尊厳さに幼いなりに感動しそして自分の父の汗に感謝したのではないでしょうか、そして父親の労働だけでは終了しない「多くの稲」を恵んでくれた自然という大きな存在に対しても畏怖を感じると共に感謝したのではないかと思いました。なぜならこちらから指示しないのにその後小学生に混じって熱心に落穂拾いを始めたからです。

 何も考えずに食べ物を残し河川を汚し人間以外の生態系を破壊しつつ自分だけよければ良しと物的豊かさの追求のみに汲々とし「青い空」や「爽やかな風」や「清らかな水」に感動することも無く「自分の存在の小ささ」も忘れた都会人としての私達の毎日・・・私もこれから「自然界の一つの存在」としての視点からいろいろ発信して参る所存です。 

田中令三


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市場社会と匿名性について

今、新しい統合NWの会議室では、ネットにおける匿名性のもつ問題性が話題になっていますが、市場における匿名性の問題も忘れてはならないと思います。

 市場経済が、生産者と消費者を貨幣という数字だけで繋ぐことによって、ひたすら合理性を追求し発展してきたことは疑う余地がありません。
 しかし、その結果、生産者にとって、消費者が完全に顔の見えない=匿名の存在になってしまった。このことの持つ問題性は非常に大きなものがありそうです。

 例えば、少し前の雪印乳業の問題にしても、回収された処分すべき古い牛乳を新しい材料と一緒にして再度売りに出すなど、誰が見てもおかしい。少なくとも自分では飲みたくない。自分の家族や大事な人には飲ませたくないと思うのが普通の感覚です。
 しかし、こうして出来上がった牛乳が、自分の知らないところで、全く知らない人が飲むとなるとこの正常な感覚が機能しなくなってしまいます。ましてや、仕事が単なる貨幣の対価でしかないのなら、必然的にそうなるとさえ言えそうです。

 また農家が自分たちで食べるものと、市場に出すものは別に作っている、市場に出すものは食べる気がしないなどと言う話を聞くことがあります。
 共認動物である人間にとって、顔の見えない存在(匿名)とは、意識や想像力の働かない存在(どうでも良い存在)となってしまう構造がありそうです。

 そして消費者にとっても生産者の顔が見えない(匿名である)構造から、購入の判断の基準は、価格と外見などの僅かな情報しか有りません。
 誰が、どのような環境でどのように作った物か、これまでは全く問題にされなかったのです。
 確かに、テレビや車などの工場生産品なら誰が作っても規格さえ同じなら、大した違いは無かったとも言えます。
 しかし、命を支える食物を同じように市場経済に載せてしまったのが、間違いだったのではないでしょうか。



玉川泰行


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食の問題について

私の参加しているNPOで現代日本の食について以下のような評価をしていました。

①大量の食料を海外からの輸入に依存していながら、大量に食べ残し捨てている。
 (供給熱量と摂取熱量の差が25%=25%食べ残し捨てている)
②食料の調達過程で乱獲、モニカルチャー、薬剤の多用により、生産国の農環境を破壊している。
  世界で約1200万ha(日本の耕作面積は約480万ha)の土地が日本のために利用されている。
③食料の工業製品化、大量生産により食に感謝する「ありがたい」「もったいない」の心が希薄になった。
④季節に関係なく農作物が生産供給され、その輸送、保管に使用される大量のエネルギーやポストハーベスト農薬が環境や人に大きな負荷を与えている。
⑤インスタント食品、外食の増加により、家族が食卓を囲むなどの共食、群食の習慣が衰退し、食卓での語らい、子供へのしつけ、食にまつわる文化の伝承など食文化の機能が失われつつある。
⑥食の工業化によって、紙、プラスチックなどの包装容器が大量に使われ、これらの廃棄物処理やリサイクルに膨大なコストがかかっている。
  家庭ごみの約60%がこの包装容器類が占めている。
⑦「飽食・グルメ」を煽動するマスメディアが食べ残し、大量廃棄を助長している。
 テレビ広告費の約26%が食品、食料、嗜好品業界が占めている。

食の問題性は上記の様に多岐に及んでいますが、食は私たちの生活基盤であり、食を中心に生活環境を見直し、人間生活を健全で文化的な姿に導いていく事が重要であると思います。

外食の問題性についても、「外食チェーン店に行かない運動」を展開するより、むしろ、共食、群食(皆で炊事、食事をしよう)運動の方が効果的ではないでしょうか。
実際、皆で炊事をして食事をする事はとても楽しいし、アウトドアならなお楽しいですよ。プラス充足できるじゃないですか。

伊藤浩


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