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農村を活性化させる為には?

コンビニな農

>「農」と生活が一体で、そのなかで充足できる方法や場があったと言えるでしょう。
>市場の中でその役割をしているのが、コンビ二etc.ではないでしょうか。

そういえば学生時代って、一人暮らしとは言っても、その内誰かのマンションが溜まり場(そこにいけば誰か居る、約束なんてしてなくても行っていい、みたいな場所)になってませんでした?
それに、携帯電話の普及で、約束もその場で空いてる人と取り付けることの方が多くなったり。

そうすると、食の量も時間も予想が出来ない。
コンビニは、そんな予測不能な生活と一体になった場。

でそんな時、「いいよ、コンビニで時間潰ししとくし」って相手が気を使わなくてもいいように都合つけれるとか、「コンビニ寄ってくけど何か要る~?」って相手に遠慮させずに必要なものをもっていってあげれるとか、コンビニの充足の中身は「友達とお互い気兼ねなく会いたい時に会える環境が整う」ことかもしれないな、って思いました。
コンビニの印象は、“押し付けがましさを与えず傍にいて応えてくれるニクイ奴!”。

>「農」も一生懸命その良さや理念を訴えても、吸引力としては、まだまだ。

農も、ことさら存在をアピールするより、ふと気が付けばそこに居るような感じで今の生活に忍び込んでいく方がいいかもって思いました。
そしてそういう存在になるには、やっぱネットワークがカギだと思うんですが。

西知子

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やはり農産物の不安定性より市場の不安定性が重要では?

>「食料の安定的調達」を前提にすれば、国内外の農業生産の不安定性を直視したうえで、常に最悪の不作時に耐えうる体制が求められます。自給率アップの根拠は、市場システムの不安定性にあるのではなく、農産物の不安定性にあります。

ご指摘をいただきありがとうございます。
どうも言葉足らずで誤解もあるかと思いますので、再度、自給問題について述べさせていただきます。

 私は、農産物の不安定性よりも、市場システムの不安定性を危惧しています。つまり、日本に限らずアメリカも中国も破綻の可能性があると考えています。少なくとも社会主義が崩壊して、資本主義が勝ち残ったと言う風には見えないのです。人類的な歴史から見れば、社会主義がちょっとばかり早く崩壊したが、資本主義(=市場主義)も早晩終焉するだろうと考えています。これらのことは、現在の地球環境問題や人口問題、市場の飽和(ほしいものがない・・・)といった現象など様々な視点から論じることが可能かと思いますが、「るいネット」の掲示板に見られる「私権収束から本源収束」という表現が本質を言い当てていると思います。

 ですから「最悪の不作時に対応する体制」以上に「市場崩壊」という最悪の事態に備えるべきだと考えています。

 例えば、アメリカや中国や日本発の世界恐慌が起こった場合、当然穀物等の輸入は不安定になるでしょう。場合によっては、生存の基本となる食料の貿易が、国家間の戦略手段としてコントロールされる可能性もあります。日本など小麦やとうもろこし、大豆などの穀物に加え米まで輸入に頼って良いのかと思ってしまうわけです。おまけに中国などからネギやシイタケばかりでなくさらに安い野菜が入ってきて、国内の農家を圧迫し、自給率が益々低くなっても大丈夫なのかと心配です。

 市場を前提にすれば、農業は安い人件費や巨大資本による効率農業というアドバンテージに凌駕されるでしょう。
 しかし、農業の可能性は市場を離れた、信認の流通ネットワークにあると思います。顔の見える信認関係が本源時代の価値基盤となると感じています。

 今、ネットワークが地域や国境を超えることは、一つの可能性として否定はしませんが、言葉や文化の壁、あるいは通貨(経済価値)の違いを乗り越えて、グローバルな信認関係を築く以前に、もっと身近な国内の信認ネットワークを築くことが先決ではないでしょうか?
 
 そして、国内農業の生き残りの道もその中にあるように思います。

星埜洋

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日本で農業「知域」「地域」

「日本の農業」について、おもしろい議論が飛び交っていて、すごく勉強になります。

私は、農や食に対して、その生産ー消費の巡りを考えたとき、「顔の見える関係での繋がり」が必要だと思っていました。(物理的にでも、精神的にでも)特に、物理的なもの(ご近所とか、共同体といったイメージの繋がり)が、今後すごく重要になってくるだろうと思っていましたので、19701 西田さんの投稿「知域」のお話はすごく画期的でした。

>おいしさ、安全性などを求めるのであれば、今やネットでの取引が出来る。 21097)

とか、流通・情報機能の発達のおかげで、「信認関係の範囲内」における農生産物のやりとりの範囲がものすごく広がりました。

「知域」の中で、信認関係を基盤に人と人がつながっていれば、「農」は周りになくてもいいということなのだろうか。。
遠くても、国外でも、「知域」単位で考えたら、農は「周りにある」ことになるし・・・
「知域」を考えるということは、「自給」を捉える範囲を、ぐぐっと広げて考えていいってことになる。

しかし、「知域」内といえど、なにかあって、農産物が流通しなくなるってことも充分あり得る。信認とかそういった人間の意識だけではどうにもならないことがあるから。(自然災害など)
だから、やっぱり、物理的な「近く」で農を感じられるような、「地域」の存在が大事なんだと思う。食は生命の基本のものだから。

「農」が物理的に、身近になくなっていくって考えると、やっぱり何か違うと思う。
いくら信認関係の中でも、「自給」の地理的な枠組みがあんまり広かったら、ちょっと待って、と思う。
それは、「国家」の枠がどうのとか、「農に対する幻想」とか、そういう観念的なことではなくて、動物としての本能なのかなあと思います。

その中で、

>逆に、信認関係の範囲内での自給率という発想が広まれば、現在起きている様々な問題も解決に向かうのではないでしょうか? <

この一言には、強く惹かれました。 ほんと、そう思います。

田中道世

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日本の農業が「世界市場」で生き残る方策はなにか? 2


では、どうしたらよいか。
 ポイントは三つある。

◆1 流通・加工・販売による「付加価値」の取り戻し

 第一は、農外で膨大に発生している流通・加工・販売による「付加価値」を、農家・農村にとりもどすことである。

 食品加工・流通業、外食産業等の発展によって、農産物が消費されるまでに生まれる付加価値は大幅に増えている。

 国民の飲食料の最終消費額は、1975年には農水産物生産額の3倍強(30兆円)であったが、1995年には6.2倍(80兆円)にもなっている。

 この外部化された付加価値を農家・農村にとりもどすことが第一のポイントである。

◆2 小力技術による、近代化のコスト増からの脱却

 第二は、地域自然と身体を活かす小力技術によって、コストダウンを図ることである。

 農業近代化のなかで普及された、資材依存の画一的な農業技術による生産は、自然の再生能力を超える極限に達している。
 それがコスト増の大きな原因になっている。

 一方、人生80年時代のライフサイクルを、「生涯現役で」と決意した昭和ヒトケタ農家を中心に、小力技術によってコストダウン経営を実現している農家が生まれている。

 たとえば、機械力にまかせて深く耕し、大量の有機物と肥料を投入するやり方ではなく、微生物と作物の根の力で上から土をつくり少肥・減農薬を実現する(半)不耕起のやり方である。

 自然と作物の力を引き出し、身体の都合にもあった小力技術、農法の創造が第二のポイントである。
 この場合、新しいやり方として、地域を組織する集落営農の方法もある。

阪本剛

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「農」も第3次産業という視点に転換

農業が市場経済に組み込まれた結果、現在の農業の姿であるということより、現状の農業に不全感があるというニュアンスを抱きました。

確かに市場経済力学の視点から見た場合、消費者優位の力関係があり、まして生産物自体を安価な輸入品と競合しているために負け組みという意識があるようにも思います。

ところが、「和歌山の梅干」や「魚の直接販売」投稿が代表するように、農業を第3次サービス産業の視点で捉えなおすことも出来ると思います。
かつて、この視点を農家の人たちは農協という組織に預けてしまい、考えることをされてこなかったのではないかと考えてしまいます。

その意味では、ユニクロという組織が商業という視点で参入することも必然ではないでしょうか。
大資本と一商店というように見るのか、あるいはネットワークの視点を持つのか、今農家は(農業は)非常に大切な分岐点にいるように思います。

統合ネットワークで話し合っている現実を直視し、そこから実現可能性を見出すという思考方法が大事と考えています。

橋本正雄 

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不作地域の道連れになりたくないから自給!?

>自給問題、市場システムの問題

 外部市場と内部組織間のバランスの問題です。「日本」に立脚すれば、国際農産物市場と国内農業間の問題として、国境で区切ることが可能です。しかし、「地域」で見れば、そのような明確な境界はありません。市場社会では、物の調達に要する費用によって、外部重視になったり、内部重視になったりすると考えられます。

 確かに、リスク・不確実性をその費用として考慮に入れれば、いくら安いと言えども、外部市場にすべてを託すことは正常な判断とはいえません。しかし、その逆も然りです。つまり、自給自足の内部組織を確立するほど、同様のリスク・不確実性が高まります。

>例えば、経済恐慌が起これば安定的な貿易は望めない。生活の基礎となる食料が市場にまかせて暴騰すれば大混乱となる。

 市場を根拠にすると、不作地域の道連れになりたくないと解釈されます。

 農産物は安定的生産が困難であるため、工業製品以上の価格の乱高下は避けられません。そもそも暴騰は、市場システム以前に、「どこかの不作」が原因です。逆に、「地元の不作」を前にすれば、自給自足にするほど、不作の問題は局部的・直接的になります。

 人々は、「食料の安定的調達」を望みます。そのため「どの程度の食料をどの程度安定的に調達するか?」というシステム問題が焦点になります。それが自給率であり、国内農産物保護です。

 「食料の安定的調達」を前提にすれば、国内外の農業生産の不安定性を直視したうえで、常に最悪の不作時に耐えうる体制が求められます。自給率アップの根拠は、市場システムの不安定性にあるのではなく、農産物の不安定性にあります。


福田尚正

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市場社会の破綻で都会と田舎の壁は崩壊しはじめている。

「都会と田舎の壁」で、
>僕たちの子や孫の世代まで今とまったく同じ壁が
依然として残っているとは考えにくいんです。

とされていますが、同感です。
私は、その理由として「問題の共有」から変化が生ずるという事以前に「必然的な社会の変化」があるとおもいます。

①日本の農村を見ていくと、平地ではいたるところで条里制の名残があり、それに加えて山村には斜面を開拓した農地があります。非常に大雑把にいうと平地は古代に、山村は封建時代に開発されています。一方都心は、古代には少数の統合階級中心の「京」ですが、江戸時代の安定社会になると江戸、上方を中心に統合階級の富に群がるように都市民が増加してきます。「都会の原点」は、この安定した農業生産にささえられた武士の富とそれに群がる商人にあると考えられます。

②近代(明治以降)には次ぎの変化が起ります。社会の制度としては米の物納から、米を売った「金納(税金)」に替わり、日本は「農」も含めた市場社会に大きくシフトしていきます。商社の米価格の操作(買占め、投売り)をとおして農村が没落し、過酷な工場に娘が働きにでる事態が発生していくなかで、工業生産が立ちあがっていきました。

③高度経済成長は、一般大衆が市場社会に「消費者」として進出した時期でもあります。決定的なのは、この時期に農村と都市の人口が逆転し、以降都市人口比は急激に増加しています。

④しかし実は70年代以降実質的な生産は増加していません。実質価値より幻想価値に偏った「商品」で一見、生産が上がったように見えただけです。そして、その幻想が破れた今、都市では仕事が無くなって失業率はどんどん増加しています。都市ではもうやることがないという事です。

そして今、農への「Iターン」や「Uターン」の動きがあります。理由は、「新しい農の可能性開拓」や「家の事情」や「都会での失職」など、それぞれだと思いますが、大きな時代の流れとして、幻想価値の優劣を競う「市場社会」の破綻と、実質価値を再構築しようとする(せざるを得ない)必然性があるのではないでしょうか?

そしてその「農」は封建社会の土台となったかつての「ムラ」とは違う体制でスタートしているように感じます。


田村正道

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わかって欲しいではなくて

私は田舎育ちですが、東京生活を経験して今は、別の田舎に住んで農業をしています。
 田舎で受け入れる側と入っていく側を両方を見たり、経験しましたが、

>いつまでも都会の理論や田舎の常識に立って話をしていては、
ずっと平行線のままでしょう。
まずはお互いを理解しようということから始めなければ、
結局は何も変わらないと感じます。<

 は、仰るとおりです。それぞれが自分発の「わかって欲しい。」、「受け入れてくれるべき」なんていう押し付けの期待ではなくて、まずは、冷静に相手を、そして地域を歴史を理解する(知る)こと、相手の期待や困りごとに応えることが必要です。
 そうすると、例えば、何百年という村落共同体的歴史のあるところでは、移り済んできた人に対して、当初「ヨソモノ」として警戒したり、距離を置くことは、構造的に必然という見方ができます。
 そこで、良い悪いとか好き嫌いとか、…であるべきだなんて価値判断は、一旦置いといて、今ある問題、たとえば、田舎では、過疎、農業担い手不足などなどに対して可能性のある方向、具体策を示して行動すれば、人は、振り向いてくれるようになるし、理解もされ、大きな流れになって行くと思います。

 今、ほとんどの人は、既存のシステムややり方ではうまくいかないことは、感覚的にわかっていると思います。かといって、昔に戻ればよいのでもないし、答えを探しているところでしょう。

 笠松さんのようなIターンした人達には、ぜひ、地域再生の核になってもらいたいと思いますし、社会的にも期待があると思います。


長谷暢二


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ユニクロ、コンビニ、ファーストフード、テレビ、携帯…

>「ファーストフード」に勝つコンセプトなんて、みんなもう既に持っているのだと思います。

ほんとにそうなのかなぁ?

>ヒトとして、人間らしく、仲間同士の充足を感じながら生きること。

ユニクロもコンビニも、貧困が消滅してこういう事が言われ始めた時代に伸びてきた。
「いつでも、どこでも、だれ(と)でも」って、けっこう人間的なんじゃないかと私は思った。

仲間同士の充足って言った時、けっこう奥の方に、「既にそこに存在しているモノ」っていう感覚がある。だからそれは、「いつでも、どこでも、だれでも」味わうことの出来るモノ。
そりゃ中身や質も、消費より生産とか他人より知人とか、本源的なのにこしたことはないけど、何より、「その状態に在る(居る)こと」が最大の魅力で、極端な話、常に充たされる状態でいられるのなら所詮中身なんて二の次なんじゃないかって思うくらい。(妥協してでも彼氏が欲しかったり、つまらないと言いながらテレビを見たり、どうでもいい事なのにメール送ったりするのも、「いつでも、どこでも、だれでも」充足のせいかもな~、なんてふと思ったり。ま、それは置いといて、と。)

>それだけで充分魅力的だと思うのです。。。。

結局、「何が魅力で、人(自分)はどういう状態で充たされるのか」もよく分かっていない日本の農業は、“ヒトとしての充足”そのもので、ユニクロやコンビ二に負けたんじゃないかなぁ。

「いつでも、どこでも、だれでも」は、提供する商品が何であれ、人間の充足をとことん追及した結果出てきた、とても優れた一つの具体的なコンセプトだと思う。
それを超えるコンセプトを、実はまだ誰も見つけられていないのでは?

西知子 

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改めて市場の問題性を探る 農業と市場の関係

最近の投稿では脱市場経済が議論されていますが、抽象的で短絡的な理想主義ともとられかねないので、もう少し市場構造の解明をすべきではないかと思います。

市場を否定しても同類闘争圧力は存在し、EUやアメリカに対抗するためのブロック化としてアジアやアラブ諸国との連携がなければ資源も生産力も彼らに依存する日本は衰退し、先進国の隷属化といった単なる負け組になるだけです。
ですから同類闘争に勝たなければ市場経済からの脱出も不可能でしょう。


さて市場が個人(あるいは消費主体としての家族)の私権追求の場として存在し、集団や国家・社会などを捨象した点の問題性は既に述べられていますので、今回は農業と市場の関係の中から問題を考えてみました。

・市場は評価共認の場としても存在していますが、その中の問題とて農業など一次産業は労働単価が不当に低く評価され、ある意味では市場の外に追いやられているとも言えます。
(20349 田中令三氏もその点を指摘されています)

これは私権闘争の初期の武力闘争による土地の私有化、支配の構造が未だに残存し、一方的な評価が下されるからでしょう。
元々集団なり国家は自給可能な生活をしており、一次産品に特別な価値をつける必要はなく権力者は一方的に収奪する構造でした。
性市場(実現論参照)に象徴されるように、市場価値は一次産品と離れた性幻想価値や生活上利便性や快適性を得られるものに高い価値の評価共認が形成されました。

農業が市場の外にあるとすると農業の効率化によって農業から非農業へ移転する人口の分、市場拡大の余地が残されているとも言えます。
ですから先進国とりわけ日本はその点でも市場拡大の可能性が最も少ない国だと言えます。

言い換えると一次産業に対する評価を高めること(相対的に日本国民の賃下げは必然)ができれば、日本も自給率を上げるための農業回帰の可能性や周辺諸国との関係強化の可能性も広がるのではないかと思われます。

>お金の量より、充足の質ということが経済を図る価値尺度になってゆくべきであろうと思いますし、質を高めてゆくという方向が今後追求されるべき方向であると思います。

市場からの脱出は評価共認内容を巡る同類闘争とも言えるのではないでしょうか。

辻一洋

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都会と田舎の壁

田中道世さん、田中健太郎さん、はじめまして。
20125と20146を拝見させていただきました。

僕自身、Iターンで田舎に住んで4年目になります。
日々の生活の中でも、都会と田舎の壁をいたるところに感じます。
そして、お2人がご指摘されているように、その壁はお互いが問題を
共有していないために生じているという点を実感しました。

「なぜそうなのか?」を考えた時、都市住民の田舎に対する幻想、
田舎に住む人の都市へのあこがれとその裏にあるひがみ、
両者間の情報不足、考え方のギャップがあることは想像がつきます。

両者では、時代背景、生活スタイル、社会構造が異なり、
ひいては考え方自体が既に異なってしまっている...
(必ずしも悪い意味ではなく)同じ日本人でも都会と田舎では、
異なる社会に住む外国人のように意識や問題認識に差があると
考えた方が、現代では理解しやすいのかもしれません。
「ヨソモノ」という言葉があり、その実態は今もありますから、
「外国」と表現しても言い過ぎではないと思います。

田舎と都会の間に情報不足や壁があり、問題が共有されないのは、
聞く意志のない人にいくらいい話をしても右の耳から左の耳へ
という状況と同じなのではないかと思います。
いつまでも都会の理論や田舎の常識に立って話をしていては、
ずっと平行線のままでしょう。
まずはお互いを理解しようということから始めなければ、
結局は何も変わらないと感じます。

ただ、このような壁も、時代の過渡期であるがゆえに
生じているものだとも言えるでしょう。
田舎でも大きな世代間ギャップが起こり、
世代交代し、都会から田舎へのIターンが進み、
世の中の情勢がめまぐるしく動く中、
僕たちの子や孫の世代まで今とまったく同じ壁が
依然として残っているとは考えにくいんです。

子や孫にいかにいい社会を残すことができるかということを
田舎と都会の共通の到達点として描いていけば、
今からでも問題の共有ができるのではないかなぁと思うのですが...

長文ですみません。
是非、みなさんのお考えをお聞かせください。

笠松浩樹

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