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農村を活性化させる為には?

新しい農業スタイル

 先日新しい農作物の販売スタイルをとっているマーケットがあると聞き(実家がたまたま割合近くにあったこともあり)千葉県の印旛村に足を運びました。ご存知の方もいるかと思いますが、グリーブという名で主に野菜を取り扱ったマーケットです。
 友人の母親に車で連れていってもらったのですが、はじめは駅からは遠く、周辺には他の店が全くなかったため、本当にこんな場所でやっていけるのかと疑問がありました。しかし実際店に入るとビックリ、どこからこんなに?というほど人で賑わっていました。
このグリーブが従来のスーパーと大きく違う点は、商品の値札のバーコードに生産者の名前が書いてあり、顔写真とコメントも掲示されているところです。従来のように価格で差別化されるのではなく、生産者によって差別化され、売値も生産者によって決られています。生産者の名前がでることで生産者と消費者の距離がぐっと近づき、結果的に生産者のやる気が促進され、実際に品質もあがってきているとのことです。
 
 友人の母親の話によると作物と生産者のイメージが繋がり、生産者その人にまで愛着がでてくるのだと話していました。この間、そこが企画したイベントに行ったそうなのですが、実際に農家と会って話ができたため、商品に対する安心感が増したとともに、実際食べるときは生産者の顔が思い浮かび、自然と感謝の感情が湧いてくるのだとも話していました、また購入行為自体が直接、相手の応援に繋がっていると思うと、買っていて楽しいとのことです。(実際暇があればすぐという感じらしいです)
今までのシステムでは生産者と消費者の距離が離れすぎていたため、生産者への感謝というのが薄れ、いつしかお客様は神様であるという方向に陥りがちだったのかもしれません。しかしここでは距離が近いため生産者と消費者との間にダイレクトに相手に対する期待と応望という力が発生します。だから期待に応えようと生産者には活力が湧き、結果的には良いものが生まれ。消費者側はそれに対する感謝、尊敬といった感情が生まれます。このとき、もはやどっちが上かということはなくなってきます。また従来のシステムと比較したときにお互いの充足感が格段に違ってきます。

農業に関してもうひとつ(NHK変革の世紀のサイトから)、新しい農業のシステムに関して気になったものがあったので掲載します。
 >ネットを利用した農業・食の新たな流通の構想が、北海道の農家を中心に始まっています。消費者は東京を初め首都圏の人々。既存の流通組織は介在せず、ネットが駆使されます。「消費者が生産農家の株主になる」といった構想です。これまで消費者はスーパーに並ぶ商品を自分で選ぶ側にいました。この構想は違います。消費者は株主のように、農家に単位面積あたり年間○万円を払います。対象農家の多くは(当然)自然農法・無農薬などの実績ある農家です。その年が豊作なら、支払った金額以上の作物が送られ、凶作ならその反対です。つまり、消費者はリスクを負うかわりに、安全な作物を保証付きで供給されるわけです。農家の方も、期待に添えなければ来年からは契約が減るわけですから当然一生懸命つくります。作物をつくる責任は生産者ではなく、消費者自身が負うわけです。生産者にとっても消費者の顔が見えるため、偽装など起きようがありません。農民と消費者が、より対等な関係になれるのではないでしょうか。

 今回は農作物の話でしたが、これからの企業、共同体のありかたとしても、生産者と消費者の関係は変化し、距離は縮まってゆく方向にあるべきだと強く感じました。そうなったとき結果として、品質の向上、そしてお互いの充足に繋がってきます。
さらに感じたこととして、単純に利便性やコストだけを考えると、従来のスーパーは便利なのですが。しかしグリーブのような店に客が集まっているのをみると、単に健康ブームということではなく、評価し、応援する楽しみ、人と繋がっていくことの充足感にお金を使いたいという人が増えてきているという確信を得ました。

野田晋一郎


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消費者と生産者が双方向に評価する場の可能性。

>生産者と消費者の信頼関係を築きつつ,運動の輪を広げる取り組みは,お金を上手に使っていると思います。

提起されたような生産者と消費者が繋がった共同購入の事例は増えてきていますね。
わたしは、そのような場で形成されるべき信頼関係の基礎条件は「双方向性」にあると思います。

大半の商品が消費される市場というのは、考えてみれば、消費者が商品の良し悪しを品定めし、一方的に生産者を評価するばかりで、消費者が評価される事はありません。本当はおかしいのではないでしょうか?

市場社会の生産者と消費者の関係は、良く言われるような「分断」という捉え方より「一方向性」という問題の方が根が深いように思います。どう消費しても自由で、評価される事が無いままであるならば、環境破壊の歯止めは大変困難です。

また、
>お金をどのように使ったかという消費のあり方も評価の対象と成って行くだろう「消費の自由のいかがわしさ」
この視点を合わせて考えると、消費活動は自由気ままである事が大切なのではなく、評価に晒されて、消費活動の質が向上する事が大切という事になるはずです。

優れた生産者があって、消費者がこれを一方的の評価しているケースはよくありますが、相互の信頼が形成できるケースはこれを一歩越えています。信頼関係を築く事に成功している例は、生産者と消費者が直接会ったり、メールをやり取りしたりする中で、双方向で感じ方や考え方が行き交って相互に評価が形成できているように思うのです。この双方向性に、市場を越える可能性が秘められているのではないでしょうか?

田村正道 


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評価闘争が活力源となった酪農家

>人類は、既に物的な生存圧力から脱却した以上、生存圧力を背景とする同類闘争(掠奪闘争や私権闘争)から、同類圧力を背景とする同類闘争へと脱皮するしかない。その新しい同類闘争こそ、このNW板で1~2ヶ月前に明らかにされた新しい潮流、即ち人々の外向収束(社会収束)⇒認識収束が生み出す認識闘争(評価競争)である。

同類圧力をもとにした認識闘争(評価競争)とはこのようなものではないか、という内容のTV番組が放映されていた。山地(やまち)酪農(だったと思うが)という、雪のない間は、山地で自然の草を、冬には自ら栽培した牧草を牛に与え、濃厚で添加物を含まない牛乳をつくる酪農法だった。

そしてそれは、栄養価の高い輸入飼料などを与えないために、普通の半分以下の量しか搾乳できない。その代わり、安全で牛乳本来の風味があるというものだった。

彼は、脱サラで、祖父母.子供たちを含め10人くらいの家族を連れ、酪農をはじめた。家族皆で働いて100万程度の収入しかなかったらしい。家族にとんでもない迷惑をかけたとも思ったそうだ。しかし、こう言う牛乳を皆が求めているという確信(意識を対象化)で『質=皆の期待に応える内容』を追い求めた、金ではない。

そして、求めてる人に応えたいと、独自のブランドで少量ながら直販をはじめた。そうすると、口コミでどんどん販路は広がり、今では年収250万くらいにはなったそうだ。また、購入者に感謝の意味もこめて、年一回農場で交流会も開くようになった。

これは、酪農家が購入者にあって感謝の気持ちを伝えるために企画したそうだが、実際は購入者がいつもおいしくて安全な牛乳を届けてくれる、酪農家に感謝の気持ちを伝える(=評価を伝える)場になっていた。酪農家は本当に嬉しそうだった。

彼は、皆の求めているもの(意識)を対象化し、その期待に応えるべく『質』をめぐる評価闘争をしているのだと思った。そして、その活動成果に対して、大きな評価を受け明日への活力としているのだとも思った。

この手の内容は、マスコミにとって健康ブームとか自然志向とかという流行の一環として、よく放映されている。しかし、取材をするマスコミとこの酪農家の意識に明らかな断層があるように思えた。

例えば、健康ブームの中で狂牛病問題は、山地酪農に追い風ではないですか?という質問があった。彼はこう答えた。(金銭的には)追い風に違いない。しかし、農家は皆一生懸命やっている。まじめに働く同胞があのような評価をうけるのはたまらない。

市場原理で無理やり、皆がの望んでいる『質』とは別のものを押し付けておいて、ただそうするしかなかった農家をせめるのはおかしい、という気持ちで一杯だったんだろうと思った。

本田真吾


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これからの農業者は、コーディネータとしての能力が不可欠。

興味深く拝見しました。

>一つの事を、自分達の手を動かしながら試行錯誤なり工夫しながら体験する事で、今までに無い発見と感動が有るのでは無いかと思います。其処が興味を引く所だと思うのです。そして、この人たちの集まりの場は盛り上がると思いますね。要は、皆がイベント運営者に成れば自ずと盛り上がります。 <

 正にそのとおりだと思います。
 そうしてみると、そんな、体験イベントを企画、事業化する農業者の側は、コーディネータとしての能力が問われてくると思います。

 つまり、自分達が持っている、田畑や施設や技術をイベントのネタとして提供するだけや、すべてお膳立てしたセットものを用意して、参加者をお客化するのではなく、参加者が自分達がある程度企画でき、主催者側がその手助けをしたり、ヒントを出したりできる集いの場作りをし、さらには有益な人とのつながりをつくったり(例:炭焼きの達人に来てもらうとか)、参加者同志のつながりを深めて行くといったことを意識してやって行くべきではないでしょうか。
 お仕着せではなく、でも一定のレベルの内容をもって、更に継続性があるという絶妙のバランス感覚というところでしょうか。

 一度参加した人から、今度はこんなことをしてみたいんだけどと相談を持ちかけられるようになればしめたものだと思います。

 そんな中から旧来の観念に囚われない新しい試みや認識が生まれる可能性があるのではないでしょうか。

 そして、このコーディネータという視点は、農業体験事業に留まらず、インターンシップや新規就農希望者の受け入れにおいても必要でしょう。
 さらには、地域の教育においても、教師や塾、子供会等にも求められるものだと思います。

長谷暢二


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急速に進むであろう「人との繋がり」収束

長谷さんもご指摘の様に、今後の農業に求められるものは「人との繋がり」そのものでしょう。
だからこそ、今後農家に求められる意識・役割は、物的生産に陥っていたこれまでとは大きく異なるだろうと思います。

先日の新聞に、○サイトにも紹介されている無茶々園のミカン農家(中井さん)に関する次のような記事が載っていました。
>「中井さんのもとには、消費者からの便りがよく届く。苦情もあるが、『送り直すと丁寧なお礼がくる。消費者との温かい関係が、作る側にはうれしい。』」
誰だって、至らないところがあるし、失敗がある。人間関係そのものが充足対象であるなら、たとえ苦情であってもそれを契機に生産者と消費者との関係が進む筈だし、プラス価値にさえなり得ます。

反対に、これまでの農家と消費者の関係とは、「苦情・クレーム」が発生すればその時点で二度と買ってもらえなくなるような「ドライ」で「怖い」関係だったのではないでしょうか。
だからこそ、市場社会ではクオリティコントロールやサービスマニュアル等を駆使し、如何にしてクレーム・トラブルを発生させないかという「リスクマネージメント」という視点を重視していたように思います。
このようなリスクに満ちた市場での取引では相手に気を許せず、人間関係を充足対象と見ることなど出来ないでしょう。

ところで、以前の投稿で、「旅行者のニーズが『心遣いや人情味のある接客』であると調査によって明らかになっているにも関わらず、観光地は催事や施設の充実ばかりに傾いている」という話が紹介されていました。
これは、消費者を警戒すべき対象と捉えつづけてきた生産者は、「プラス価値としての人間関係」が求められていると解っているにも関わらず提供することが出来ないということを意味しているのではないでしょうか。
意識構造上の問題であるためそう簡単には転換できないのだと思います。

今後社会において、この人間関係を「充足対象」と見る層と「警戒対象」と見る層に対する、社会の評価の差は拡大する一方であり、同類闘争の結果も明らかでしょう。
それゆえに、「人との繋がり」収束も淘汰によって急速に進む様に思います。


小西康雄


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地産地消は活性につながるか

>例えばA市で作っている農作物をA市の商店街で販売するようにしたらどうでしょう。

これはある種の地産地消ですね。この場合の地産地消の利点は、外部にお金が流れず町内でお金が流通する、大げさな言い方をすると地域経済が活性するということでしょうか。

>ただ売るのでは普通ですが「A市の~さんたちが作りました」のように書き込みをいれておけば多少販売価格が高くても「~さんが作ってくれたなら少し高くてもいいかな」と思いませんか?

生産者のラベルを貼って、つくり手に農産物の品質責任を持たせるという仕組みは、農村で流行っている産直施設(群馬県川場村の田園プラザ、山形県櫛引町産直あぐりなど)でみられる仕組みに似ています。この場合では、売れ残った商品は出品者が引き取るので、その必然性からラベルを貼っているというのが元々の理由のようですが。産直の利点は、農協を通さないので規格外の農産物をさばけることや、小規模農家(趣味で畑をやっている高齢者等も含め)に販路を提供できること、それから先に述べたようにラベルを貼ることで消費者と顔の見えるやり取りができ、それが作り手の責任感を養うとともに、自分の産品が売れる売れないというリアルな評価が活力を産み出し農業が活性する、等でしょうか。

しかし難点もあるでしょう。29733では小学校給食を例に挙げていますが、『計画的に、大量につくらないといけないから、統一規格の商品(Lサイズのジャガイモ100キロとか)を仕入れるのに、地域のものでは効率がわるい。』というように、地域や農家によっては安定した流通が保証できない場合もあり、それでも定期的に買い取ってくれる(または商品を陳列させてくれる)ような理解ある商店は多くはないかもしれません。(話せば趣旨は理解してくれるでしょうが。)

でも、地産地消という取り組みには可能性を感じます。たくさんの流通経路を経て販売するよりコストは低く収まるし、細々とやっている農家にとってはやり方次第で色々なつながりや活力を産むきっかけになりそうですよね。
ただ、商店街の活性化についてはいろいろな切り口があると思うのですが、経済的な活性化を目指すなら、こんな手ぬるい方法ではなかなかゴール(活性する)にはたどり着けないと思います。ただそうではなくて、商店街を人の集う場所とか人の関わりを生む場所として活性することが目的なら、やり方次第では成功しそうですね。

山崎許子


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無料のイベントは楽しいのか?

私どもの農園では、毎年田植えや稲刈りの時に、グループ会社の社員を中心に、大勢の人がやって来ます。今年もそんな時期になりました。今では立派な「体験イベント」です。

始めのうちは、社員の皆さんに手伝いに来てもらうという感じだったのが、最近では社員の参加者が減り、社外の方のほうが多いくらいになってきました。これは、繰り返し来てくださる方が、増えていかないということです。社外の方が増えるのは、関係の拡がりによるものなのでしょうが、社員の参加者が減ってきたのは何故なんでしょうか。

このイベントは「手伝い」から出発したので、参加料を頂いてません。食費などの実費を徴収するだけです。私は、ここに大きな原因があるような気がしています。

つまり無料ということは、参加者に対し門戸を広げる一方で、「田植えがしたい」とか「体験してみたい」という欠乏が大して強くない人たちも集まってしまいます。むしろ参加料を頂いた方が、参加欠乏、体験欠乏の強い人たちが集まるのではないか、或いは、参加料を払うという行為が、集まる人たちの意識を規定するのではないかと思います。

また、お金を頂くからには、参加者に楽しんで頂けるよう、イベントの内容の充実に努めていかなければいけなくなり、それによって、イベントの質も向上して行くはずです。そうなれば、一度参加した人が友人・知人を誘って参加してくれるようになり、イベントの成功、持続にもつながるのだと思います。

貴重な田植えや稲刈りの体験とともに、みんなで成し遂げた充足感、達成感を満喫し、さらに終わった後の楽しい団欒のひととき。私が参加者なら、ここまで楽しくさせてもらっていながら、お金を払わないのはおかしいと、きっと思うでしょう。お金を払わないことで、充足度が低くなるようにさえ感じます。「お金を払うことだって楽しい」のですから。

これから農園の仲間と、この体験イベントの商品化、事業化について検討していくつもりです。

小松由布樹


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日本における新しい農業形態を提案する。

農業活性化の取り組みは現在、役場が主に行っている。一般的に農業共同体形成のような事業は役場寄りで、建築家の仕事の範疇ではないと思われるかもしれない。しかし、私としてはこうした事業こそ建築家の仕事であると思う。なぜなら、「建築家とは、地域住民がいてその住民に貢献してこそ初めて建築という仕事をもらえる」のだからである。そのため、建築家はもっともっと地域の人に役立つ施設づくりをしていかなければならない。またそうすることで「建築=家を作る」という固定概念から脱却して新しい建築スタイル(需要)が生まれてくると思う。そのためには、建築家は現代社会が抱える問題を深刻に見つめ正確に把握し、地域の人々との話合いを通して、それらの問題を解決してゆく姿勢が必要となる。

そこで、私なりに日本社会の問題とその動向を見つめた結果、思いついたアイデアを提案する。

・問題点として野菜が安いということが挙げられる。
・社会動向としてSOHOスタイルのビジネスが増加している。
この2つを軸に新たな農業共同体を提案する。

ここで、野菜農家の例を用いて話しをすることにする。
農業中心でいこうとすると、今の世の中はお金がいる社会だから、電話代・光熱費・その他様々の経費のために野菜をお金に換えなければならない。しかし農作物は安いからお金にならず困窮に陥る。自分たちの家族が食べていく分には十分なのだが・・・。こうしたことから家族全体での農業の専業経営は難しい。
そこで、SOHOスタイルの普及という観点から、農業をやりたいと思う人を集めて、少人数制の自分たちが食べていく分だけの食料を作っていくという単位のコミュニティーはどうだろうか。それはコミュニティーの中心に2〜3階建てのプレハブ住宅のようなものを設置し、その中でSOHO形式による論文研究や事業によって稼ぐようにする。その農業以外から得る収入により光熱費などを払うのである。つまりこのプレハブ小屋はいってみれば「多目的ベンチャー企業会社」のようなものである。もちろんメインの仕事というものはこちらの方であり、あくまで農業は趣味でするといった感じである。そしてこの建物は、仕事のためにみんなが周囲から集まって来ているわけだから、農業の耕作計画を話し合っていく場ともなる。

ここで、耕作機の問題がある:1台の耕作機をみんなで共有するという試みがすでに農協で行われている。しかし、耕作時期が重なり、また共有農家数も多いため、耕作機の貸し借りやメンテナンスを管理する人が必要になる。しかし、その管理の人件費も馬鹿にならないため、上手く運行してない。一人が一台の耕作機を持った方がその機械について把握しているため、長持ちするという統計もでている。しかし、小規模な農業コミュニティーであれば、そのような心配もなくなるであろう。この点で、小規模(一つの農業共同体の規模は多くても数家族程度)でやる方が理想的であろう。

私の研究室の院生の実に5人に3人が農業をやりたいと望んでおり、このことからも上記の農業共同体は企画者がいれば実現可能性は高いといえる。
とにかく研究者は、「自分で作ったものを食べたい」「外に出て体を動かしたい」といった理由から、農業をやりたいと思っている人が多いように思われる。そういった研究者が望む趣味やストレス解消の手段としての農業に応えるものであるためにも、農業を完全にバイオテクノロジーやコンピュータ技術によって制御・管理しオートメーション化することはあり得ない。

上記の様な新しい農業スタイルが確立されれば、現状の日本貿易が抱える欠点も解消される。それは、国民全員が農業(つまり自給自足)ができるようになれば、国の基礎体力が向上することになり、輸入・輸出の契約時に「輸入してやらないぞ」という脅し文句(弱み)を握られなくなるということである。将来的には、日本が国際社会に生き残れる国家となることにつながるだろう。

立石涼一


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「農は意識生産」という明確なパラダイム転換が必要。

 ここのところの地域ネット、自給に関する投稿を拝読してあらためて感じるのは、実は、「農」は、意識生産であるということです。

 市場化の波に巻き込まれていなかった時代には、「農」は、不可欠な食糧生産という営みであると同時に、生活と一体化した、あるいは、生きることそのものであったと言えると思います。それは、物的追究というよりも、精神的充足も含めた、一種の意識生産と呼べるでしょう。
 つまり、「農」は、元来、意識生産という側面を持っていました。

 ところが、「農」が市場に組み込まれ始め、「農業」となり、大規模化、少品目多量生産化、効率化(市場で言うところの)、コスト削減を目指し始めたときから、「農」は物的生産となり、工業製品化の道を辿り始めたと言っても過言ではないと思います。

 しかし、この会議室で何度も話題として挙がっているように、流れは逆転して、本来の方向に向かいつつあります。ただし、社会状況や諸条件が昔とは異なる現在、全く可逆的に元へ戻るわけではないし、目指すべきでもない。

 「自給の社会化」を始め、いろんな提起がされると思いますが、これからの農を考える上では、「農は意識生産」という再認識、パラダイム転換が不可欠ではないでしょうか。

 具体的に言えば、たとえば、無農薬栽培品、有機栽培品、味がよい、栄養価が高い、希少品種という、生産物そのものが持っている価値は、それは、それで大切なことではありますが、本質的に重要なのは、農をとおした、あるいは、それにまつわる精神的な充足、人の営み、つながり、活動や考え(意識)です。

 農業体験事業や、インターンシップ事業は、それを具体化したもののひとつですが、「農は意識生産」という認識を明確に持っていないと中途半端なものになってしまうでしょう。

 また、地域ネット、統合ネットとの関連では、、敢えて市場社会の概念である「売る」という言葉を使って表現すると、農業生産物を売ると言うよりも(実際売ってはいますが)、生産グループや地域での取り組みや、活動している人達の活力を売る、地域を売ると言ってもよいと思います。
 
 これからは、農産物を買うとは、そういうものを買うということを意味するのではないでしょうか。

長谷暢二


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自給→多品目・少量生産⇒小規模農業のすすめ

『自給』をキーワードに考えてみたい。
自給と云うからには、可能な限り「食」の過半をまかなうのが本筋で、食材のあらかたを対象にすることになり、おのずと多品目になるのが自然な成り行きでしょう。
戦後の食料事情の悪かった時に、わずかな土地にでも家庭菜園らしきものを経験してきた世代には容易にイメージ出来ると思います。私の実家でも、ナス・キューリ・トマト・えんどう豆・枝豆等が所狭しと植わっており、茗荷・紫蘇・蕗などは自生していたので、ちょっとした食材の調達には事欠きませんでした。

一方、近代農業の「圃場整備」には、大型化・機械化・省力化という概念が下敷きにあります。国の補助金行政が後押しをする形で進んだ大型化を実現するためには、機械化は必然であったといえるでしょうが、それは大いなる誤解と幻想でしかなかったのではないでしょうか。

●エネルギー効率という視点でみると、稲作においては機械化導入は≒1/5(3595「効率主義の落とし穴?」)の生産性でしかなく、いわば「油」を食べているようなもの。
⇒よって、環境的にも負荷が増大している。
⇒経済的にも、大型化の投資が経営を圧迫し、「豊作貧乏」などのリスクも増大。

●生産者の自給放棄は、現金収入依存度を増大することを意味し、農業機器・資材・肥料・種子等の購入経費支払いなどと相まって自ら市場の原理に身をゆだねる蟻地獄に踏み出すようなもの。
⇒流通を市場に依存するからには、買手市場という構造は変わらない。
⇒買手の顔の見えない生産現場では、期待に応える活力も持続し難い。

●この間の大手食糧生産メーカーの不祥事は、大手資本安心幻想を打ち砕くに余りある事例であり、信任仲間繋がりに基づく「食の安全・安心」こそが有望。
米国の大型農業生産はすでに陰りを見せて久しいが、その根本原因とは地域需要に応えることのない単一作物の生産傾斜にあった。しかも、その生産物は低価格競争にさらされた世界市場にしか向けられていないゆえ収入面でのメリットもない。

⇒日本はむしろ小規模・零細であるがゆえ、地域密着の小規模農業で生産現場に需要者を巻き込むかたちで信任関係を構築するのに適している。
⇒流通を廃した直の関係は、単にコスト削減という領域に留まらず、『農』の持つ多機能性(=現実課題を前にした教育効果、癒し効果など)を発揮しやすく、その師たる百姓の信任関係が成立し易い。
⇒その時に提供する生産物とは、単一作物というより多品種であるほうが有り難い。云ってみれば、自給生産農家のお裾分け、こそがフィットする。
⇒インターネットによる直販にしたところで、「抱き合わせのセット」の方が一過性の単品目対応より継続性があり魅力的である。

以上が「小規模農業のすすめ」の理由である。

小圷敏文


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自給の社会化は、産直ネットワーク構築と同義と感じました。

「お裾分け=自給の社会化」のご紹介を興味深く拝見いたしました。
「自給」と云うと有る農家だけある地域だけと、閉鎖的イメージとして捉えがちですが自給も社会的次元で捉えると広がりのあるものだと思いました。

そう云えば、私の実家の母も自前のお米・野菜や味噌・黒豆のお菓子等などを自家消費用に作っており、その余力分をお裾分け的に親戚・近所に配り歩いている様です。そんな中、数年前に田舎風物詩的な番組で紹介され出演した様ですが、その後番組を見た人から「美味しそうだったので送ってくれ!」と注文が来たそうです。その方達は、リピーター化して産直顧客化した様に聞いています。結局、陳列台に並んでいる無表情な商品より、農業に従事している人達が丹精こめて作ったモノの価値の方が上回ると云う事では無いでしょうか?

自分達で作った農産物を消費する事や、乃至は認識仲間が作った農産物を消費する事を含めて、農産物を自給している事なんだ!と考えた方が広がりが有ると思います。そして、以前にも「知域」の議論が有りましたが、重要な視点と再認識いたしました。

「自給」と云う基本理念を持ちながら、知域を広げる事。それは、産直ネットワークを構築する事と同義だと思いました。そして、その繋がりから援農や体験学習等に参加する人々が増えて行き、農業も活性化する可能性を感じます。

松本幸二


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