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農村を活性化させる為には?

生産者と消費者の分断を越える「社会の当事者」の立場

>社会を構成する当事者として現実を見つめる中で、このことに気づき、その考えを広げていくことが本当の環境配慮の第一歩だと思います。

この投稿を読み、環境問題のような社会不全に対して「社会の当事者」という立場が大変重要であると理解しました。

この会議室では、農業が市場に組みこまれ「生産者」と「消費者」が分断されている事により、農業が本来もつ統合感、充足感が失われている問題や、食ベ物としての安全性が失われている問題が指摘されています。 また消費者という立場については、「消費の自由」の名の元に必ずしも必要でない物が大量に消費されており、この過剰消費が環境破壊の直接的な原因である事が指摘されています。 環境をめぐる様々な運動や技術開発もこの分断を引きずり、それぞれの立場を抜け出ることができません。

消費者は生産にかかわらない立場に立ち、自らの過剰消費の問題を棚上げした上で企業に対しては、生産時に発生するエネルギー消費や有害物質の発生についての批判だけの立場です。
一方の生産者は市場で生き抜く事を命題としている以上、消費者からの環境破壊批判をかわす為に「地球に優しい企業」である事をでっち上げてでも示す事情があると思います。 

しかし、このままでは生産者と消費者のそれぞれの事情があるだけで、社会不全は解消されません。 「地球にやさしいという欺瞞」(36564)を、生産者と消費者が共に喜んで受け入れる理由はこのあたりにありそうです。

私達には、生産者の立場か、消費者の立場しかないのでしょうか?

ここで、「社会の当事者」という立場が決定的に重要である事がわかります。 
気が付けば当たり前の事かもしれませんが、私達はまず「社会の当事者」であって、この立場で問題を発掘し、考え合い、振るまう事が原点で、その一部として「モノづくり」と「消費」があるのではないでしょうか? 

私達がこれまで社会の当事者の立場で考えなかったのは、「社会というものは一部の人が運営すれば足りる」と思い込んでいたからに過ぎません。しかし、実際は環境問題ひとつとっても一部の運営者でコントロールできるものではなかった。 
替わって、ここに誰もが社会認識を形成できる実現論と場があり、万人に社会の当事者としての立場が拓かれました。 ここでは消費者と生産者を越えた社会そのものを対象として認識形成が可能なのです。
そして、社会の当事者にとっては社会を直視する事が全てで、ここでは「欺瞞」は全く必要ない事がわかります。

田村正道


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新しい認識を受け入れる下地はできている。

>植樹運動やビオトープ等々の本源風収束は現実逃避と言い切れなく、其処に新しい認識を注入されない現実が有るからに過ぎないと思い直す様に成りました。<

と同様の実感と同時に、既に、その新しい認識を受け入れる下地はかなりできていると感じる機会が最近ありました。

 以前、この会議室で紹介した「ニューファーマーズフェア」と同様の農業版企業合同説明会とでも言うべき「就農フェア」(地元県開催)に出店して来ました。

 訪れて来る人たちは、年齢、性別、経歴は様々ですが、農業研修や就職先を探しに来ているのは共通です。当然、農園の紹介や研修の実際の概要や条件などひと通りはいつも通り話をしました。
 今回は、それに加えて、相手の反応を見ながら、この会議室で取り扱われている話題を一部分ですが拙い表現力で話してみました。

 環境問題も農業問題も本質的には社会統合の問題であること。
 目先の手軽な実践や代償充足に埋没せずに、現実直視すべきこと。
 市場の持つ問題性。
 生産と消費の分断の倒錯性。
 素人が協働して新しい認識を生み出して行く事の必要性。
 等々。

表層的対応で受け流されるかなと心配していましたが、予想に反して食いつき(反応)が良い人が2,3割いました。特に若い学生、しかも女性に多かった。しかも、研修や就職で受け入れてもらいたいがために聞いているというよりも、内容そのものを熱心に聞いてくれました。
 具体的な研修実態や受け入れ条件、可能性について、詳しく聞くつもりでブースに来てくれたのでしょうが、そんなことはほとんど忘れてしまっていました。
 最後には「今日はここに来てとても良かった。」
     「目から鱗です。」
     「何だか、今までにない可能性を感じます。」
 という実感のこもった(表情を含めて)感想を残してくれました。

 そういう層は、どちらかというと農業に対する予備知識や確固たる信念、こだわりがあまり無く、深く考えたことはないけれど、既成の固定観念にもあまり染まっておらず、潜在思念に近いレベルで可能性を捉えているようです。
     
 つまり、若い就農希望者の中には、新しい認識を吸収できる素地をもった人は、かなりいるし、さらには、認識形成の場に参加して来てくれる可能性のある言わば「るいネット予備軍」も多いのではないかと思います。
 
 本源風収束を本物にしていく端緒の1つがこんなところにもあるのではないかと感じました。

長谷暢二


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自然農の可能性

自然農自体に環境問題の解決の糸口を探すとすれば、可能性なり展望を感じる背景は物的快美欠乏のままに破壊した「緑」を代表とする自然に対する肉体的な渇望と裏腹の自然収束の蓄積であろうと言えるのではないかと思います。したがって、それは都市>田舎で感応レベルでは差があることも考えねば一律に広がるものではないと思います。

一方、田舎でも食材が売られているスーパーでは五里四方をはるかに越えて輸入野菜などが幅を利かせる事例は多いと思います。この現実を目の当たりにして、自然収束から一歩踏み込んで安心、安全の供給という食本来の持つ必要性を問うことはこの場でも繰り返し行われています。したがって、食の安心、安全の観点では自然農に対する意識の統合は地域を越えて模索できる可能性があるのではないかと思います。おそらく、その実現体制を考えたとき、自然農自体がどれほど皆に必要とされているかを問うことは一定必要でしょうし、そのために経済的評価くらいは獲得できる共認形成も必要でしょう。

その際、やはり不可欠なのが、状況認識であると思います。それがこの会議室などで盛んに行われている環境問題という問題の設定にある欺瞞性であり、倒錯性であることから順に判断の土俵を構築し、勧善懲悪に向い、一過性のものにして出口を塞ぐことにならないようにという指摘には同感です。

自然農(不耕起栽培、有機無農薬栽培・・)は大量消費、快美幻想を転換した者たちから序々に広がる食にまつわる協働関係として注目しています。

土井誠也


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農業は「第1次産業」から「意識生産業」へと転換した。

従来、産業の発展というと、その生産物、もしくは生産されるサービスの社会的評価の向上により、その生産価値が上昇し、多くの商品が市場で消費されることを以って「発展」としてきた。 要は、人気がある商品を大量に売りさばくことが発展だったわけです。

 しかし、現在の「農業の発展」を見ると、その商品である「野菜の価値」は、「食料危機」のような特異な事態でも起こらない限りその価値が激変することはあまり考えられない。従って、農業が、その発展、可能性を注目されているのは、農業の商品価値自体の変化に起因するのではなく、私達の価値観自体の変化に起因するものと考えられる。
 
 これは、『市場型パラダイム』の転換により、「商品やモノ」を中心とした価値規準が、「人や生活」中心へと変化することにより、「農業」というライフスタイルそのものが、評価されたことによるものと考えられる。 
 
 このことは、「農業」が、生産物のみを商品として扱う「第1次産業」から、「農業」という魅力的なライフスタイルのもたらす、サービス、ネットワークを提供していく「意識生産業」へと産業形態自体をシフトさせる可能性を示すこととなる。

森本さんの投稿にある「少ない人口でも地域の人々が生き生きと暮らせる農村」は、生き生きとしたライフスタイルを人々に提供する「新しい農業」を以って、実現される可能性を大いに感じます。

 
東努 


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厳選農家検索サイトの提案

>食は、信認関係をもとにした交換関係(流通)にすべきであることを、本気で考える必要があるのだと思います。

私も同感です。
この食における信認関係をるいネットはサポートできないでしょうか?
例えば今は各生産者が個人的に作成しているHPなんかもあり、厳選○サイトでも紹介されていますが、○サイトから購入先を見つけるのは結構手間がかかると思います。
それよりるいネット参加者の購入先の有機農場マップや有機農作物の秀作版、佳作版なんていうのもありだと思います。
種類別や地域別に有機野菜が検索できるシステムがあれば、その様なサイトには多少お金を支払ってでも利用したい人は多いと思う。

 


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「総体としての農」のあり方を考えることが基盤になる

>「市場」を越えて「傍観者」の立場を自ら捨て行動する、例えば有機栽培農家への購買(金銭的)又は労働支援、産直製品の自主的積極購入、家庭菜園の耕作などそれぞれ身近に自分達に始めれるところから変革して行く。
これらは我々が今から実行すべき重要な事だと私は考えています。

>市場の中で生産者で有ったり消費者で有る事を止める事では無いでしょうか?生産者・消費者と云う立場からもっと根底的な社会的動物としての人間の立場に立脚すべきだと思います。その次元で考えると、協働関係の中にこそ生産も消費も包摂されるべきものと思われて成りません。

同感です。
市場を超える=市場を介さない農作物の供給体制をどのようにして実現するか。
基本的な回答は信認関係をベースにした供給ネットワークをつくるという方向。その関係・繋がりの基盤は、生産から消費を包含した「総体としての農」に対する思い・認識を共有するゆるやかな(?)認識仲間的な関係。
当然、化学物質に頼らない生産を行なう。そのために必要な人的労働は消費側からも提供される。逆に言えば、協働の喜びが得られる場、共認ネットワークを固め、さらに広げていく契機ともなる場が生産場面の中に提供される。
そのような関係が作られ拡がってゆく過程で、生産者・消費者という市場を介した分断関係から信認・協働関係が主流となる体制へと変化し、信認関係をベースにした農作物の供給ネットワークが形成される。

農は不可欠な食の生産を担うものだから、これからの時代(共認社会)を形成するネットワークの中心に位置付けられるはず。その意味でも、生産~消費を含めた「総体としての農」のあり方が問われることになると思います。また、その展開の過程で、地産地消ということも自ずと実践されてゆくように思います。(知縁が地縁へと拡がる)

山田渉

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自分課題という倒錯。

>研修生にとって農業技術の習得、有機農法、農を基盤にしたビジネスを起こしていくためには孤立してはいけないのだが、集落や上中の人たちに協力してもらうことなしに実現できないということが、まだ現実を帯びた認識になっていない。 <

現在の若者達は、育って来る中で、与えられたのは、受験にしても、お稽古ごとにしても、スポーツにしても、バラバラの個人としてこなしていく「自分課題」であったのでしょう。何かを協働してつくり上げていく、あるいは、仲間で課題や目標を設定して、自分という存在は脇に置いといて、何かを皆で達成していくという体験は実質的には皆無に近いのではないでしょうか。ましてや、年代を超えた人たち、地域の人たちとつながり、行動していくということは尚更なかったでしょう。
 
 実は、「自分課題」なるものは、私権を確保しなければ生きていけなかった旧時代の概念であって、事実に反した倒錯観念です。これからの社会では、自分が解決していかなければならない課題というのは、皆から期待され、自分に与えられた役割であるというはっきりとした認識が必要になると思います。それでこそ、大きな充足感が得られると思います。

 その意識が無いと、営農についても、自分、あるいは、自分達に都合の良い段取りを組んで、それの障害となるものはわずらわしいものとして排除しようとしてしましい、結果的には、皆の期待を捨象するという本末転倒となります。

 農業研修(特に長期研修)とは、栽培技術や、経営の小手先のテクニックを学ぶのが主目的ではなく、期待応望の共認感覚を身に付けることこそが最も重要なことであると思います。
 そこがしっかりすれば、農の世界に限らず、どこででも通用する人材になれると思います。

 
長谷暢二 


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生産と消費が一体化すると、概念が変わる

私も鶏を絞めたことがあります。(首を切って血を抜く作業には、さすがに恐れをなして参加できませんでしたが、)このときの私は「かわいそう」という感情よりも、「どんなに美味しいだろうか」と期待する気持ちの方が強かったのが本音です。
 生産と消費が切り離されると、私たちは鶏を食材ではなく生き物として捉えるようになります。生き物の命を奪うことは「かわいそう」であることに他なりません。しかし、食肉を生産し(鶏を絞め)消費するという作業工程では、鶏は食材の一つとして捉えることができます。「美味しいかな」と期待する気持ちが生まれたのは、生産という工程に携わったことで、鶏に対する概念が変わったからだと思います。
 かわいそうと感じる人は生産・消費の過程を客観的に眺めているからでしょうか。本来農村地域では、生産と消費は一体となっていたはず。そういう社会で生活していれば、食べるために育てて、美味しくいただく(そして感謝する)ことが当然です。この当り前の構図を受け止められないのは、生産と消費が分断されてしまったからなのでしょうか。

山崎許子


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「繋がりたい」と「煩わしい」が混在

若い研修生が都市から上中町へ来て農業生産法人の研修がスタートした。初めての田植えに追われて余裕がないということもあるのでしょうが、共同生活をする前提になるはずの、廻りに対する関心がない。
研修生同士なら、どうでもいいような話題でも少し盛り上がるがそれだけで、特に外部の人に対する気遣いが上手くない。解っているがどうしたらいいか解らないし自分の事が話題になるのは居心地もよくないのだろう。

研修生にとって農業技術の習得、有機農法、農を基盤にしたビジネスを起こしていくためには孤立してはいけないのだが、集落や上中の人たちに協力してもらうことなしに実現できないということが、まだ現実を帯びた認識になっていない。

地元の人たちが諦めかけていた農業を真剣に捉えてくれる若者が都市から来たことに対する期待と関心は想像以上である。命の次に大切な農地を預けることになった忸怩たる思いと、しかし自分達ではどうにもならない現実の状況を法人と研修生に託す期待がそこにはる。

世に中には幾つになっても自分探しをしている人は多い。しかし、「皆の期待に応えることをやる」と考えると何か物事がハッキリしてくる。頭の中も皆を羅針盤に考えていけば、その成果や評価が伝わり、独り善がりにならずに何をしたいか考えが纏まって来る。
また逆に、自分が何かしょうと相手に期待するor相談する時、相手は出来るだけ研修生一人一人の期待に応えようとしてくれている。持っている知識(技能)、道具(資料)、人脈を皆さんの期待に応じて手助けしてくれる。

とりわけ農業や農村には、そんな関係が無数に存在する。都市生活では考えられない世代を超えた交流が存在し、各々に知恵があり自然に対する共通の話題(課題)がある。世代間で纏まり、世代間でしか会話できない話題で固まったり、孤立する必要はここにはない。
知らず知らずに煩わしい(警戒心)と感知してしまう自分を、農業生産を通して共に担う協働なしには実現しないことを、この1年で体感してもらおうと考えている。

馬場康一郎

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有機農業は消費者のためのものではない。

投稿を興味深く拝読しました。 

 そこで、低投入(人工的肥料や農薬を極力使わない)稲作を推進して来られたある研究者の方が仰っていた言葉を思い出しました。
 「有機農業は、何よりもまず生産者のためのものである。」
ということなんです。

 有機農業の厳密な定義は重要ではありません。要は、持続可能な循環型の農業という捉えかたです。

 言葉の意図は、持続性のある生産システムでなければいつかは破綻を迎え、生産者として成り立たない、ひいては、社会の中で不可欠な農という役割が継続しないので社会が破綻する。さらには、消費者も存続できないということです。

 かなり本質に近い部分を突いていると思います。

 消費者のために安全で安心、美味しいものを届けるというのは、本源的で一見良さそうな気がしますが、市場社会での「消費者は王様」という概念の中では、社会統合上のバランスを欠いた本源風の倒錯観念になってしうと思います。

 社会統合上の観点からは、法的に規定する、有機農産物の安全性や味よりも、持続性があることの方が重要です。

>、「エコファーマー」は、農業の生産方式を認定するもので、環境保全型の農業を普及し、日本の農業を持続性の高い循環型の農業に切り替えていこう、という社会統合上の発想から生れたものである事です。<

>農産物においても社会統合上の必然から生れた商品を買う(=お金を使う)、という意識が浸透してきたようです。 <

 「市場社会の消費者」から「共認社会の参加者」へ脱皮しようと始めたばかりというところではないでしょうか。

長谷暢二


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