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農村を活性化させる為には?

「市場を超える」とはどういうことか?

「市場を超える」「脱市場」などのキーワードが以前から使われてきたが、皆さんの投稿を読んでいても、様々な意味合いで使われているように感じた。中でも、市場とは別の空間に評価の場が作られるべしというニュアンスの意見には、違和感を覚えた。

端的に言って、現時点で「市場を超える」とは、「市場で勝ち抜いていく」ことに他ならないと思う。市場は縮小過程に入った、或いは市場に対する不信感が強くなっているとは言え、現在も私たちは市場競争の真っ只中にいるのは事実であり、市場の評価指標(=お金)に基づく評価を獲得する以外に、評価獲得の道は無い。(参照35273「新しい『場』は、古い評価指標の洗礼を受けて、はじめて顕在化する」)

問題は、市場で勝ち抜いてくために何が求められているのか、ということなのではないだろうか。それは、何の根拠も無い、気まぐれな「市場の声」(参照42673)に耳を傾けることではなく、その背後にある人々の意識や期待に応えていくことなのだと思う。そして、人々のより普遍的な期待に応えるものが勝ち抜いていくことによって、次第に「市場の声」はかき消され、市場は、純粋に期待と応望による取引の場に替わっていくのだと思う。これが「市場を超える」ということではないだろうか。

そして、市場の背後から「必要か否か」という基底的な判断の土俵が姿を現し、今やあらゆるものがその上に載せられるようになった。農作物も同様であろう。その判断の土俵上においては、人々がそこにお金を使うかどうかが、それが必要とされているかどうかを計るモノサシになる(参照33821)。であるならば、馬場さんの仰るように(45253)、必要性を軸に考えることに可能性を感じる。

小松由布樹

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真っ先に普遍期待を語ることが迎合を防ぐ。

>就職して社会に出るのではない。すでに社会に出た今こそ普遍認識を身につけ、旧観念で縛られ自閉した既存集団(企業)を変えてゆくことが今のみんなにかけられている普遍期待なのだ。と捉えた瞬間、「就職」という悩みは「新しい社会をつくる」課題へと統合されてゆきます。
<(45799阿部さん)

 仕事上、就職先として農業の生産現場を考えている学生や農志向の若者と接して語りあう機会が多いのですが、阿部さんの投稿を読んで、あらためて、普遍期待に応える認識を充分に語れていないことに気付かされました。
 若者の農収束は、脱私権、旧関係からの脱却の可能性への収束の一事象として捉えることができる一方で、現実逃避の代償充足への埋没の側面も混在しています。

 そんな人たちと話をするとき、
 最初に、普遍的な認識、例えば、「集団に入るのではなく社会に出る」、「素人こそ、次代を切り拓く新しい認識を紡ぎだせる」などを投げかけた場合と、農の話を切り口にして普遍的な認識につなげようと話を展開するのとでは、圧倒的に前者の方が、内容のある話ができます。
 
 後者は、認識の前段の話(ここでは農の話)をする段階で、本源風、認識風の話になりやすい。つまり、相手の根底にある普遍期待に応えるのではなく、普遍期待に対する答えが見えないから手近な本源風の対象に収束するという私的期待に応えてしまっている。そのつもりは無くても、知らず知らずに迎合しやすい。
 今まで、そうして、普遍期待の可能性に蓋をしてしまった場合も何度かあったと思う。これは、特に、認識を語ることにおいて未熟な者は、心してかかるべきではないかと思う。

 実際、最初に普遍期待を語れて話が盛り上がった場合には、身近なor等身大の興味の話へ堕ちていくことはほとんどないし、そちらへ話題が寄りかけても、普遍的認識を使って斬りやすい。

 やはり、真っ先に普遍期待を語ることの重要性、関係パラダイムの転換の必要性が身にしみてきます。
 そして、みなさんの投稿を読んでいくうちに、迎合無用、最初からストレートに認識を語ることが、よりスムーズにできるようになりつつあります。


長谷暢二

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農業も万人が担うべきものではないか

>万人が属している社会を統合する仕事は、万人によって担われなければならない。それに本来、社会を変革し、統合してゆく仕事ほど、面白い、充実できる仕事は他にない(実現論0_7_02「万人が半専任(副業)として参画する」)

これを読んで、農業も万人が担うべきものではないかと思いました。

>この幻想共認(幻想への可能性収束)によって作り出された、市場商品の価格と一般農産物の価格との価格格差こそ、市場拡大のテコとも原動力ともなった市場の秘密の仕組みである。(異国の食品や、無農薬の食品は、幻想共認の形成が可能であり、だからこそ一定の市場化も可能なのである。)そこでは当然、農耕の労働価格は、幻想商品の労働価格にくらべて、異常に低くなる。この価格格差(価格差別ともいえる)の秘密こそ、途上国が一貫して貧困状態に置かれ続けてきた真の理由であることは、いうまでもない。(30709「超国家・超市場論9」)

農業は、市場原理(取引原理)の中では、常に搾取され続けてきました。利潤追求を第一義とした結果、食物そのものの安全性が疑問視されるまでになりました。農業と市場原理は水と油のようなもので、馴染まないのではないでしょうか。

市場社会以前は、村という生活の全てを包摂した共認空間の中で、国民の大多数が農業に従事していました。食物生産という誰もが必要とする普遍課題である以上、農業は共認原理(統合原理)の中で営まれるべきものであり、社会統合課題と同じ地平にあるのだと思います。

就農人口も専業農家も減り続け、専業として農業をやる人が極少数となってしまったという現象は、逆に、農業は万人が担うものになるという将来像を暗示しているのではないでしょうか。兼業農家が増えているということは、農業は半専任(副業)でもできるという可能性を示唆しているのではないでしょうか。

社会を構成する万人が農業を担うこと。半専任(副業)でないとしても、成人する前や年老いてから全員が農業を営むという形で、万人が農業を担うことは可能だろうと思います。市場の枠内にある農業の現状からは、距離があるかもしれませんが、農業の問題も、このような実現イメージを頭に置きながら議論することも必要かと思います。

冨田彰男

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食の安全性は同類圧力の位相にあるのでは?

市場ありきで話を進めるとどうしても追っかけっこ、だましあいの不安が残ります。評価空間の形成とは安全性を競うことではないようにイメージしてます。

地域や企業といった一定規模の集団が独自に自分達の納得のいく安全なるものを築きあげる、それは概ねその集団にすべて情報開示され、またそれらの内、優れたシステムや方法は、その地域や集団を越えた社会に開示される。結果、安全を支えるシステム、認識が広まる。それはただ広まるのではなく、可能性収束の原理に則れば、質に収束し、かつそれぞれの状況に適したものに変化しながら水平展開していく。

問題はこの流れをいかに創り上げることになるかということであって、農業の安全性をいくら追求しても答えはそこにはないことは明らかなように思う。

ここで評価空間の形成の議論が重要になる。るいネットには全国からいろんな方が集まって、一定の知域を地域や集団を超えて形成されています。では地域や集団など先達者の動きをこの場に共有情報といて開示し、皆の意見、感想を募ることが早速の解決なのかと思うが・・・収束力に欠けると感じる。

実は安全な食べ物って誰も分かってない、だから不安感がことさら刺激される構造にあるのでは?・・・・科学論など読んでいると、人間のこの手の問題に対する鋭敏性は実はとても鈍いことがわかる。それ故に生存圧力では到底見えてこない問題ではないかと思う。逆に言えば、実は最も同類圧力に投影するにふさわしい課題なのかもしれないと思った。


土井誠也


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開かれた評価競争の「場」

食は、日常として肉体に直結しているがゆえに、食の安全を犯されれば不全として出易いところがあります。
だから、食の安全を犯すものの不正を糾弾するというのは、表に引きずりやすい現象だと思います。

しかし、その不正を糾弾しても結局根本的には解決しないという感覚があるのではないでしょうか。
つまり、今の安全欠乏からくる不正糾弾の背後には、食の安全がなぜ犯されるのかという原因が見えない「不透明感」があるように思います。

何が安全なのか→とりあえず肉体に直撃する食の安全を犯すものにはその不正を糾弾する→しかし、本当に安全を犯す原因がどこにあるのかが見えない→マスコミを頼りにしても原因構造が見えない不透明感→考えれば考えるほど社会を対象にしなければならない→しかし、社会構造が見えてこず閉塞していく

>安全を求める流れは、突き詰めると「どうしたら信頼を創り出せるか?」という流れである事がわかります。あらたな信頼の創造が普遍的に期待されているということです。>

「事実の構造」が見えるようになりたいという欠乏が高まってきているのではないでしょうか。
もしそうであれば、食においてもその事実の構造=認識を提示できていく農業生産者なり農業に参加する企業が、消費者から最も評価(≒信頼)を受けることになると思います。

>“(生産者の)顔の見える関係”といった実関係。
そういう実関係がない流通を考える場合は、消費者が直接相手に発信せずに、評価空間が形成される仕組みが必要だと思います。>

顔の見える実関係より、事実の認識を提示する空間(=評価軸が認識となる「場」)を創ることが食の分野であっても重要なのだと思います。
そして、そこが誰もが見れ評価できる「開かれた評価競争の場」となることで、顔の見える実関係を超えていくのだと思います。


麻丘東出


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「信頼の創造」が期待されているのではないでしょうか?

「不祥事」などの事件を皮切りに農産物や畜産物の安全性に対する関心が高まっています。近い例として、学校給食の衛生基準対応や、環境ホルモンの調査と規制、建物の安全基準など、あらゆる場面で安全基準が求められ整備がはじまっています。農業生産、工業生産を問わず、生産者は監視され包囲されつつある状況です。

流れについていけない生産者はやっていられなくなり廃業が進む事が予測されます。既に、牛の生産者や、問題になった大企業にその兆候があります。現象としては、悪徳生産者を摘発するという形で動き出していますが、実は、大衆の監視圧力は、市場全体を何か胡散臭いもの(業界では共認されていても社会とは無関係なもの)として忌避し始めているのではないでしょうか?

市場への全般的な不信感が根底にあるとすれば、安全を求める流れは、突き詰めると「どうしたら信頼を創り出せるか?」という流れである事がわかります。あらたな信頼の創造が普遍的に期待されているということです。

これまで市場の世界で認められた優良企業などの生産者がこれに成功するとは限りません。むしろ、モノの売買の前に、新たな信頼関係の創造を目指した生産者達によって、何処からでも立ち上がる可能性があると思います。


田村正道


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「公園」を求める声

長野県松本市での話を聞いた。同市には木立の多い美しい公園が二つあるが、ろくに市民に諮られぬまま、市長の「独断」で、そのうちの一つを廃し、「オペラも上演できる」市民会館の建設が進んでいるという。所謂「箱型行政」の例であるが、この話をした方(古希を過ぎた方であるが)が怒りを覚えていらっしゃるのは、市民無視の市の行政もさることながら、何より市民の集いの「場」、憩いの「場」が理不尽に失われることに対してであった。大上段に構えて「税の無駄遣い」とか「行政の横暴」とかいう前の、ごく自然な叫びであると思う。
 つまり、人々は特定の目的にのみ限定されたー専門化された「施設」ではなく、様々な形で触れ合える「場」を求めているのではないか。年齢、性別、職業等々様々な、社会を構成するすべての人が触れ合える「場」を大切に考えているのではないか。都市であれ農村であれ、前近代において必ずそういう「場」はあった。鎮守の社、寺、広場など。それが近代には、「公園」という形で現れる。
 しかし現在の都市において、「公園」はその機能を果たしているだろうか。一角に子供の「遊具」めいたものを置き、花壇を作っておけば「公園」を確保したことになるという行政の姿勢もあるが、今はそれを云々するよりも、人々の「潜在思念」に在る「つながりの場の希求」を今こそ捉え、復活させる意義が「マツリ場」形成にはあると考える。


 
中村朋子


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私権の最後の砦、それが現在の農村

最近の一連の投稿を拝見して感じたのは、

 農村は、今や、私権の最後の砦になっているのではないかということです。

 現在、都市から農村へ、農への収束(特に若者の)のキッカケとなっているのは、都市に於いては、誰の目にも明らかな私権システムの崩壊過程を直近にしていることでしょう。モノは売れない、仕事は減って、失業者は増える、苦労して手に入れた一戸建てのマイホームも中身の家庭は冷え切ってローン地獄が残るだけ、離婚の急増、共認充足できる仲間は身近にいないetc.
 収束できるのは、芸能や趣味という代償充足のみ。そこにしか私権の存在場所が無いと言っても良いくらい。

 一方、農村は、私権システム、市場システムの中においては、どちらかと言うと周辺部であったため、私権システムの崩壊過程でも、その顕在化が遅れ、かつ、中途半端に、助け合い等の本源風人間関係が残存するために、決定的破局にまで至るという意識が薄い。

 このことは、単位集団や地域を超えた社会統合、社会課題の意識や活動が不可欠なこれからの時代においては、足枷になるし、同時に、本源風の欺瞞観念によって、私権が最後まで残存する場所になり得るし、農村という場所、概念そのものが強烈な代償充足の対象とも言える。

 闘争と生殖が一体となった単位集団が存在しないところで、しかも、社会統合という意識もないままに、本源風の観念を撒き散らすことは、ごまかしに過ぎないでしょう。

 現在の第一課題である新しい社会統合を実現して行こうとする際に、旧パラダイム(本源風欺瞞観念)に絡め取られないためには、農村は私権の最後の砦という意識をしっかりもって臨む必要を感じます。
 それが、本源的な流れにのった、脱私権の農収束を本物につなげるカギではないでしょうか。

 現時点では、残念ながら、認識仲間となれる可能性が高い対象は、都市の方が多いと感じますが、農村でも、私権の崩壊が決定的に顕在化するのは時間の問題です。そのときまでに、認識転換できるかどうかがカギです。

長谷暢二


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何故人々の意識が農村に向かうのか

 可能性収束先(現状としては逃避先?)として、人々の意識が「農村」に向かうのは何故なのか、考えてみました。
 農村は、かつて市場社会によって追い詰められてきたという背景を持っています(生業としての農が産業へと転換せざるを得なくなったり、マンパワーが都市へ吸引されたり、土地を侵食されたり…)。その結果として、今日の農村は、市場社会の侵食から積極的に逃避(防衛)をしているのではないかと思います。(農村民が、都会人に時折見せる排他性の要因の一つとしても、こうした背景が挙げられるのでは。)
 その市場からの逃避が、現在多くの人々が持っている脱私権志向とマッチしたために、人々は潜在的に農に可能性を見出したのではないでしょうか。

(同じことが「農業」に対してもいえそうです。市場の侵食から積極的に逃れられる可能性を持っているのは、人の生活と切り離すことができない永続的な需要(食物の生産)がある「農業」です。)

山崎許子


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「農業」の持つ可能性は脱私権の可能性

>そして、農業のように生活と生産が密接に絡み合っている場こそ、……

 私もふと疑問に感じたのですが、「農業」は生活と生産が密接に絡み合っている場なのでしょうか。今日の農業は、他の職業と同じように、モノを生産し流通させている、そういう仕事のひとつにすぎないように感じています。
 生活と生産が絡み合う場ということは、つまり闘争課題と生殖課題を包摂する集団を形成しているということだと思うのですが、今日の「農業」(農家)がそれを具現化しているとは言い切れないと思っています。

>“闘争の場(職場)と生殖の場(家庭)が分断されてしまった”事が問題ならば、それらを包摂した集団を自分達の手で作る動きが出て来ても良いように思える。
しかし、時代潮流は岡田氏がで洞察されているように、集団の本源化には向かわず、私権集団から離脱→社会収束に向かっている。

 さらに、言われているように、人々の意識は実は本源集団の再生に直接向かっていないとしたら、農業が特別な可能性を持っているということは、幻想なのかもしれません。ただ、農業という仕事は、人にとって欠くことのできない食物を生産する仕事なわけで、仮に市場が完全に崩壊したとしても、確実に生き残る可能性があります。そういう、脱私権の可能性こそ、他の産業にはなく「農業」が唯一持っている可能性ではないでしょうか。

山崎許子


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