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農村を活性化させる為には?

信頼をキーワードとした農業の、たくさんの可能性。

 大学の講義内の学生の研究発表で、「地域住民参加型農業」について発表している学生がいました。引き出しの少ない私はそんな農業があることをそのとき初めて知って、「なんて新しくて可能性を秘めている農業なんだろう!」と思ったので、少しそれについて私も紹介したいと思います。

「地域住民参加型農業」とは、できた農産物に対して消費者がお金を払うのではなく、先に地域の住民が資金を寄付し、そのお金で農家が作物を作り、収穫したらそれを寄付してくれた住民に配るという形をとる農業だそうです。現在はアメリカで導入している地域があるそうです。

この農業の利点として素晴らしいなあと感じたことを以下にあげます。

・消費者と生産者の間の関係を今までよりぐっと近いものにできる。
            
             具体的に言うと↓   

・消費者が寄付する段階で、生産する人の顔が見れるので、消費者がより安心できる。

・農家の人は、信頼関係がないと寄付をもらえないことになるから、よ り地域住民の声に耳を傾け、反応を見て、より住民の期待に応えられるような作物を作るように、より努力するようになる。(例えば無農薬野菜か大量生産か、どちらにウェイトを置くか、など。)

・農家の人が地域の人の期待にに応えられたとき、反応が直であると考えられるので、周辺地域の人々との信頼関係も強くなるとともに、「頼られてる!」といった仕事に対する誇りと、活力を生むことができる。

・地域住民も寄付した分、農家の人がたくさん収穫できるように、周辺 環境により注意するようになり、生産者に協力的になる。
(天候悪化が原因は仕方がないが、人が改善できると思われる原因に、地域で対処しようという気持ちが高まる。例えば、周辺工場の流出物などによる土壌の富栄養化など)
 また、少しでも自然の天候による外圧に対抗しようとし、温暖化による気候の変異などをより意識し、行動するようになる。今まで行われてきた、「いわゆる環境保全運動」を、漠然とした形ではなく、今までより身につまされた形で実行するようになる。

・人員不足だったら、消費者が進んで手伝うようになるかもしれないし、例えばその役割が忙しい大人にかわって、消費者の学校帰りの子供たちになったら、教育の面でも最近取り上げられている問題の大きな改善策につながる。

・いままで一番お金を払われるべき価値のある働きをしているのにかかわらず、収入が少ない農家の人が、天候悪化などが原因の不作などで貧乏になる恐れがない。

・もし天候悪化で消費者が損失を受けても、本当に天候悪化で損失を受けたか否か、その地域にすんでいる消費者全てが証人であるし、今までその損失を全部ひとつひとつの農家が背負っていたことを思えば消費者は文句は言えない。(それだけ食物をつくる難しさ、食物のありがたさを実感できる。本当に価値のあるものは何なのかが実感できる。)
・(というか天候悪化で損失があるだろうことを考えて投資をすることにこそ、信頼関係に重きをおいたこの農業形態において意味のあることであり、農家の活力、地域の活力を高めるのに重要である。)

 以上、聞いた話に私の理想もまぜて、つらつら述べてみました。私自身その農業のことを少し聞いただけで、体験してみたわけではなく、現実には問題点が多々あると思いますが、以上の利点だけでも今の社会のしくみを見直し、社会における農の価値を、本来の重さに転換するためのヒントがたくさん含まれているような気がします。
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>日本ではいま欲しいものを探すことが難しいほど飽和しています。全てのものの評価が下がって底無しのデフレです。だからこそ、「市場原理ぬき」で実質価値が問われるように転換できる可能性がある<

>実質価値とは、これまでも会議室で話されたように、栄養価だけでなく信用や感謝といった心の充足を伴う農あるいは食といったものであろうと思います。<           
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 そう思います。本当にお金を払うべきなのは、実質価値があるのにも関わらず、今まで安い値段をつけられていた農作物、それを作るために費やした農家の方の労力なのだろうと思います。「不作になるかもしれない食べ物にそんなにお金をかけるなんて・・。」というのではなく、「気候が悪化したからってなんだ、食物にはそれでもお金をかける価値がある!」と、皆が認識転換できるほど、農に重きをおいた社会構造を構築できたら、なんだかいろんな意味で素敵な社会になるかも、と思いました。 

武田瑞紀


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答えは枠の外に

現存する地域社会を共同体と見る認識がもしかするとおかしいのではと思いました。
なぜなら、共同体は必要なものと判断したことを訴えることで実現しようとするものなんでしょうか?という単純な疑問が沸いてきたからです。
喪失感に苛まれる閑もなく、必要なものを実現する、実践するだけなのでは?それを訴えるにとどまるとはどうも結びつかないのです。

例として上げられたのは、「住人(若者)が増えて欲しい」、「にぎわいが欲しい」、「人と話す場が欲しい」ですが、特に最後の「人と話す場が欲しい」は、交流会を通じて多くの方々が見知らぬ人との話す場を求めている実感、すなわち人収束から答え=認識収束の事実に照らすと、実は話の中身がないから場が無い、作れないのではないかと考えると、住民が増えない、にぎわいがないとも合致します。

であるなら、話の中身をすなわち認識へいち早く収束することが地域社会の抱える問題の突破口になるように思います。

「土地に根ざす」で思考停止していては現実は突破できないと言うのが現在の不全なのではないですか?まさに答えは枠の外にあるというパラダイム転換が必要な状況そのものでもあると思いました。

一方で、何故土地に根ざさないのか?若者が離れるのか?にぎわいがないのか?ということを当事者として追求する方々もいらっしゃいます。そんな方々がこの場を知域として作り上げていくことも現実の突破口かと思いました。

土井誠也

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今、地域や土地を越えた社会統合が求められている。

>たとえば環境問題に関して、私はどうしても傍観的にしか考えることができなかった。自分の身近なところに存在しているとは思えないのである。なぜか?それは私が「土地に根ざしていない」からではないかと考えるようになった。 <

>私権統合によって生じる諸問題を考えるとき、「土地に根ざした」という発想が必要になるのではないだろうか。<

 環境問題に限らず、現在の社会的な問題(不全)は、感覚機能だけでは本質を感知できないもので、観念による事実共認が不可欠の対象です。
 ところが、その観念が私権時代につくり上げられた旧観念であるために現実を打開する力に全くなって来なかったのがこれまでです。

 従って、事実共認にもとづく新しい社会統合システムをつくることが、先決です。

 傍観的になる原因は、私権時代には社会統合過程に素人(みんな)が参加できるシステムになっていなかったことです。その旧い意識から脱却する必要があります。

 ところが、そのことを見落として、「土地に根ざす」ことで問題を身近なものとして感じとれるにしようとするのは、一見良さそうで、実は、問題の本質を見えなくしてしまうことになります。
 問題解決とは逆ベクトルで、旧私権システムに絡め取られ、その延命に手を貸すことにしかならないのではないでしょうか。


 今や、地域や土地、単位集団の有りように拘るより、まずは、新しい社会統合を実現することが先決で、そこから地域や集団の有りようが規定されて行くと思います。

 「土地に根ざす」必要などないと思います。それは、本源風の価値観念に過ぎないのではないでしょうか。

長谷暢二


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生産活動としての視点

>日曜百姓にはいろいろな世代の人や職業の人が訪れます。そして、農家の方と共に農作業をします。あるときは、みんなでパーティーやイベントを組んで収穫を祝うこともあります。私はこの活動の中で、るいの交流会のような話し合いが出来ればいいなと考えていますが、今の未熟な私ではそこまでできません。しかし、ただこの日曜百姓に参加するだけでも良いと考えています。<

日曜百姓での交流風景が浮かんできます。そこには楽しさや交流という活動がふんだんにありそうですね。
しかし、ふと振り返ってみると、日々の学業や仕事を離れた楽しさであることに気づかされます。
日常の生業(これを現実場面として)から離れた楽しみといわれる所以でしょうか。

解脱だけという場から一歩前進するという意味で協働生産の場という視点をしてみてはいかがかと思います。

日経夕刊に「農産物産消提携が復活」という記事が紹介されていました。消費者である私たちが農家に手伝いに行く。取れた生産物を共同購入したり有料で仲間に分ける。生産者と消費者の交流だけの場から生産販売を通した生産活動の場にしてゆくという提案です。

この場の転換は、事業活動のようなものになり、楽しさだけでは成り立たないと想像できます。日常の活動も加えられ、悩みや苦労などが増えることでしょう。しかし、そこには農家、消費者という多数の人達の関わりと期待が見えてくるように感じます。

産消提携という事業は、賛同者が増えるほど事業面での規模が大きくなり、事業形成というようなものに変わってくるでしょうが、このような単なる交流から、生産活動を協働する交流へという動きがあることを実感します。

橋本正雄

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農業の可能性意識は何処に向かっているのか?(外向きの意識潮流から)

>彼らこそ、言葉になっていないけれど、関係パラダイムの転換、私権の力関係ではなく、皆で可能性を紡ぎ出していく関係にいち早く収束しかけているように感じます。

私も同じように感じる事があります。これに近い意識潮流として、都会での就職をあきらめて田舎に帰り農業をする、しかし農業をしながら地域運動やボランティアなどの社会的な活動をする若者の事例があります(「半農半X(エックス)」と呼ぶらしい)
この現象などは、かつて兼業農家といえば「現金収入を得る副業」と相場が決まっていた事を考えると大きな変化です。
既存の販路にこだわらずネットや直販で新しい信頼関係と販路を構築しようとする農業と流通が台頭しつつあります。

共通するのは、これまでの集団(や地域)を越えた場の可能性を探索していると言う事、一言でいうと外向収束です。

安心できる野菜を求めて、考え方の合う農家と交流し「顔の見える関係を重視する」といわれる潮流も、市場が発生する以前の地域共同体的なものを理想としているというより、新しい人間関係に可能性を求めた外向き意識の潮流と見たほうが判り易い気がします。

農業の新たな可能性を見ようとした時、農業生産と流通の「形態」ばかりに目が向いてしまいましたが、この見方が旧かったように思います。むしろ、外向きになってきた人々の「意識」の方に注目すると、これまでの生産の場、流通の関係では得られない、何か本物だ!と感じられる認識や人つながりの手応えを、あいまいではあるが、誰もが求めている事に行き着くのではないでしょうか? 

このあいまいな欠乏を「安心できる食べ物を求めている」と、いったん意識してしまうと、安全基準づくりなどの個別課題に収束してしまって、根底の欠乏は鮮明に意識できないままです。 欠乏と課題が鮮明になって始めてやる気が出て、そして充足できるのだとすれば、農業での可能性は、農作物の生産・流通そのものよりも、あいまいな(欠乏)意識を鮮明にすることのできる場の形成へと収束していくのではないかと思います。

田村正道

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生産 販売、さらに食育までも

金沢市の郊外で農業法人を営む者です。ここ10年でずいぶん農業の傾向も変化して来ました。以前は、農業と言えば生産技術の話しだけしていれば良かったのですが、今は販売戦略まで行う必要があります。でもそれは、モノを作って売る以上当たり前のことです。
 しかし、現在は、売る相手、つまり「マトモに食べてくれる人」がいないのです。マーケティングのターゲットが不在の状態なんです。「何を言っているの、人間生きている以上食べなきゃ死ぬよ」と言われますが、死んでもおかしくない状態の日本人が増えて、数々の危険信号が出ています。今の多くの食べ物は、お母さんに代わり、中国で内陸部の娘さんによって作られています。
 そこで、最近のお百姓は、せっせと食の教育つまり「食育」に力を入れています。本来これは、国が、学校が、家庭が、行うべきものでしょうが、国は、工業生産に力を入れ、学校も偏差値アップを考え、お百姓も、そんなことより米価を上げろとがんばった結果、気付くと「マトモに食べてくれる人」がいなくて、農産物が売れないという状態を招いています。
 コンビニの菓子類だけで生活している人が、20歳台の8%以上いるというデータもあります。この事実に、あきれ返る前に、私は食育を始めようと考えました。幸いなことに、小中学校では、総合学習の中で、稲作体験や、食と命の授業をする機会が多くなりました。しかし、これは自分にとって、負担ではなく「志」の部分と考えて楽しんでやっています。
 私の自慢は、唯一子供達から「農業は楽しいですか?」という質問を一度も受けた事がないことです。最初から楽しそうなお百姓に、この質問は無意味なのでしょう。その代わり「林さんが授業に来るのは、林さんちのお米を買ってもらうためでしょう?」という質問がありました。なが~い目で見れば、その通りです!鋭い子供もいるものです。

こーよー

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マスコミは「書き得」か

人権・報道・インターネット 管理者:山下幸夫弁護士

上記HP内の「報道について考える」

=====以下引用======

マスコミは「書き得」か

 現在、週刊誌では、芸能人や一般市民の名誉を毀損したり、プライバシーを暴くような報道がが日常化している。世間が注目する刑事事件の被疑者となり、逮捕でもされてしまえば、その瞬間からその被疑者の過去の経歴からその親族のプライバシーに至るまでありとあらゆる情報が集中豪雨的に全国に報道されてしまうのが現状である。

 週刊誌ジャーナリズムを初めとする我が国のマスコミがこのようになってしまった原因については、我が国における名誉毀損やプライバシー侵害に対する法的な救済が不十分であり、報道被害者が仮にマスコミを相手に損害賠償請求訴訟を起こしても、裁判で認められる慰謝料が極めて低いために「書き得」になっていることが指摘されている(朝日新聞社会部編『被告席のメディア』)。

現状のままでいいのか

 このように、我が国における名誉毀損やプライバシー侵害に対する法的な救済を見ると、極めて不十分であり、そのため、報道被害を受けた市民が利用しにくかったり満足な救済を受けられていない。他方、訴えられたマスコミは、たとえ慰謝料を払うことになっても痛くも痒くもない金額なので、報道被害者からの法的措置にあまり恐れることなく、日々、人権に配慮しない報道を漫然と続けていられるのである。

 我が国の法的救済の現状がこのままでいいはずはない。少なくとも、名誉毀損やプライバシー侵害に対する慰謝料だけでも、アメリカに習って、少なくとも1000万円単位の高額な金額が認められるようになることは最低限必要である。

 ところで、マスコミは、報道被害者から名誉毀損やプライバシー侵害を理由に追及される際には、憲法で保障された「報道の自由」を錦の御旗として反論してくることがある。しかし、報道の自由は何を書いてもよい、市民を傷つけてもよいという自由ではそもそもないし、何よりも、報道の自由は本来国家権力の動向を監視しそれを国民に伝達するために認められているはずである。ところが、マスコミの多くは、国家権力や政治の動向を正確に伝えるよりも、芸能人や一般市民のプライバシーを暴くことに精力をつぎ込んでいる。これは露骨な商業主義と言わなければならない。

内藤琢 


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やってほしい事を発信する、必要性。

>統合欠乏から生ずる皆の声を積み重ねて行く事が最も重要47757

常々、農業で何か面白い事ができないかと考えています。
農業への絶対視⇒タコツボ化や、問題意識発の発想ではなく、農業を上手く利用して何かできないかと思っています。(40488、37409)
モデルとなりそうな発想で思いついたのが、地域サロン。(43387)

---地域サロンとは…-----------------------------------------
認識充足が得られる社会空間への欠乏が高まっていますが、大半の喫茶店は明確な欠乏としてキャッチしていません。
そこで、認識営業の必要性に気付いた層(≒るいネット読者)が、喫茶店にその欠乏を伝え、それに応えてくれた喫茶店を地域サロンとする。読者も店も、双方共にプラスを与える事になります。
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何か面白い事をするには、共認域を広げる事が必要。だから、

1:農家(or農業)のファンになる。
 地域サロンと同様に、農家にやってほしい事を発信し、それを実現してくれた農家のファンになれば両者ともに嬉しい。またそうなれば、生産者vs.消費者という構造から、(真の意味で)脱せると思う。

2:ファンを増やす。
 やって欲しい事を発信し、それが『社会不全⇒みんな期待』にマッチした要望だったら、それは農業無関心層の心にも響くはず。47559
そうすれば、消費者要求への迎合orパイ(安全に価値を置いている人)の奪い合いに終止している現状から脱せると思う。

地域サロンの場合と同じく、農業者にやって欲しい事を積極的に発信していく事が、農家へのなによりの応援になると思います。
その意味で、地域サロンの農業版(47168)も面白いと思いました。
その他、地域サロン的な発想を、考えれば考えた分だけ、農業という分野は面白くなっていくのではないでしょうか。

佐々木健二

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農業を面白くできるのは、言葉にならない可能性から。

僕は、大学が農学部だった事と、実家がインターン生を受け入れる農家である事から、農業希望の学生と話す機会がたくさんありました。

農業に関心を持つ学生には大きく2種類に分けられます。
・明確に環境・農業に可能性を感じ、農業以外に関心がないタイプ。
・理由は、なんとなく面白そうだから。一見やる気がないタイプ。
話してみると、前者は語ります。(減農薬・自然農法・地産地消…etc.)
対して後者は、聞き役に徹します。その結果、前者と比べるとインターンシップ仲間内での評価は比較的低い。

しかし、面白い現象が起こります。インターンシップ期間が終わりに近づくにつれ、両者の評価は逆転していきます。実際、農作業を本当に楽しそうにするのも、直売所などでの接客を楽しそうにやるのも後者。

また、実際に就農するのも後者。日頃、農業以外に関心がないと言う前者は、いざ就職となった時に就農しない例が多いように思います。
前者には、大学などの無圧力空間の中だけで、農業に付随する観念(減農薬・自然農法・地産地消…etc.)を論ずるだけの人が多いのでしょう。

問題意識から農業にハマった人ではなく、なかなか言葉にはならない思いをじっくり温めている人こそ、農業で(そして当然、社会でも)必要になってくると思います。

佐々木健二

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脱市場=幻想共認の取引関係から新たな闘争関係へ

農業における、脱市場、超市場のシステム、とはどのようなものなのだろう?、それを考えるうえで、市場と農業の関係を少しおさえてみたい。

>この幻想共認(幻想への可能性収束)によって作り出された、市場商品の価格と一般農産物の価格との価格格差こそ、市場拡大のテコとも原動力ともなった市場の秘密の仕組みである。(異国の食品や、無農薬の食品は、幻想共認の形成が可能であり、だからこそ一定の市場化も可能なのである。)
そこでは当然、農耕の労働価格は、幻想商品の労働価格にくらべて、異常に低くなる。この価格格差(価格差別ともいえる)の秘密こそ、途上国が一貫して貧困状態に置かれ続けてきた真の理由であることは、いうまでもない。>(30709 超国家・超市場論9 私権闘争の抜け道が、交換取引の場=市場である)

市場は、闘争関係からの抜け道となる共生(取引)関係であり、その共生の中身は、幻想共認を源とししている。
また、本来、農産物は幻想共認を形成できない。それゆえ、市場商品と農産物との価格格差が市場の原動力になった。

とすれば、
本来、市場の中で幻想を描き様がない農産物を、市場化(価格の差別化)しようとするシステムなり言葉には、何がしかの幻想共認をはかるモノが存在している恐れが大きい、という視点が重要ではないでしょうか。だから、そこに絡む幻想共認が入りこんでいないかどうかを切開していく必要があるのだと思います。(たとえば、長谷さんの>安全欠乏の根底にある統合欠乏>(44723)の投稿)

農業における超市場システムとは、どのようなものか?今は答えが見えないが、少なくとも、「農業は市場存在ではない」、かといって「脱集団の潮流からすれば、農業ももはや集団内に閉じ込まれない」。
とすれば、共生関係ではなく集団を超えた闘争関係に可能性を求めるしかないのではないだろうか?
ただそのためには、その闘争関係を規定する圧力構造を明確にしなくてはならないとは思う。

麻丘東出


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みんな期待に応えているか否か

>しかし、僕達は全員、農薬が体に良くないことはわかっている。
>そして同じ頭で、農薬なしで農業が成立しないと思っている。
>また決定的な事実として、社会不全の前では、一部の食材に含まれている農薬の量が多いとか少ないとかいう意識は二の次にすぎない。44583

消費者の声と言ったとき、声なき声とでも言うべき上の内容が、一番しっくりくる、普通の人の実感だと思う。

社会不全に応える統合活動を、皆が半専任で担ってゆく事が前提となる、その上で農業に(=あらゆる生産活動の領域に)出来ることはないのだろうか。

市場の本質は取引関係(共生適応)にあり、例え流通形態が多少変わったところでその範疇を越えられない。しかし、期待(人々の意識)自体が、「みんな」へ向かっているとすれば、それが評価の収束先となり、取引という関係自体が力を失い、実態として市場の内容が転換してゆく(市場を越えられる)はず。

その様な視点で見ると、農業においても様々な可能性が考えられる。農産物の生産、販売だけにとどまらず、資源循環への取り組みや、消費者との交流、体験、教育、新しい流通形態への取り組み、農地(生産基盤)を守ること、担い手育成・・・等々。一つ一つの活動の中に、皆の期待に応えられる実現基盤はあると思う。

みんな期待に応えるべく取り組む様々な活動が、農業者の活力も生み、信頼にも繋がってゆくのではないだろうか。

参考)
29834『超国家・超市場論2 闘争(能力)適応 と 共生(取引)適応』
30709『超国家・超市場論9 私権闘争の抜け道が、交換取引の場=市場である』
35009『取引関係から共認関係へ』

馬場真一

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実現派が可能性を感じるか否か

>農を事業として捉え直すことが、まっとうな判断を覚醒させる早道なのでは? <
(46312土井さん)

 こと農業に限らず、市場という評価の場が現に存在する時代においては、「事業」という視点は、即ち、現実直視、実現思考と言い換えても良いと思います。

 そして、戦後復興から高度成長期、今日に至るまで、農業が衰退してきた歴史は、即ち、そんな思考のできる実現派(優秀な人材)が農業から流出していった歴史と言い換えても良いのではないでしょうか。

 別の見方をすると、現実である市場に背を向ける、あるいは、表面的な市場の要求に振り回されてきた、最も現実逃避思考に流れてきた存在が農業者だったと言えるでしょうし、その結果の1つが、代償充足の対象としての農収束という最近の現象ではないでしょうか。
 そして、その現象の原因を作ってきたのが、実は、多くの農業者自身であることに気付くべきです。

 確かに、私権のパラダイムが隆盛で、モノに収束している時代においては、実現派(と言っても私権パラダイムから脱却してはいないが)にとって魅力がある場は、農業以外のビジネス分野に多くあり、そちらへ優秀な人材が流れてしまったことには必然性があったと言えるでしょう。

 しかし、物的欠乏が飽和状態に達し、人々の意識がモノから、精神的充足、意識生産物に向かい始めると、そのことにいち早く気付いた実現派の一部が、農業に可能性を感じてそこへ向かい始めていると思います。

 ここ10数年、農業で経営的にある程度の成功を収めている方々の多くは、そんな実現派であり、元々農業専門ではない新規参入組みです。

 そんな人からみれば、先行する実現派がほとんどいない農業は、ちょっと頭を使えばいくらでも可能性を開ける(実現できる)格好の場と映ったのではないでしょうか。

 そんな方々の何人かとお話ししたことがありますが、面白いことに、共通して仰るのは、企業の農業参入は歓迎であり、中には、企業が参入して来ることによって自分達の経営が脅かされることがあったとしても、農業に真面目に取り組んで、活性化されるなら構わないとまで言い切る方もいらっしゃいました。

 つまり、こういう方々は、農業に取り組みながらも、社会的期待=みんなの普遍期待を鋭く感じ取っている実現派(ないしはそれに近い人)であり、そんな実現派が可能性を感じる場であるか否かは、どんな分野においても、物事が実現していくかどうかの1つのカギを握っているのではないでしょうか。

長谷暢二


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