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農村を活性化させる為には?

高齢者の役割も子供の教育も生産圧力のある場でこそ有効となる。

この会議室のテーマである高齢者の役割についても、子供の教育についても、いろんな具体案があると思います。

 しかし、それらを考える上で決定的に重要なのは、生産圧力、あるいは、みんな課題のある場での期待と応望、評価でこそ初めて本質的に有効となるということではないでしょうか。

 高齢者のために無理矢理作った役割や子供を教育するためだけの場では、本末転倒です。

 高齢者も、本当に必要とされるみんな課題の一端を役割として担うからこそ活力に繋がるのであり、子供も、生産圧力という実践の場の中で、人間関係を学んで行くからこそ、生きていくのに必要な能力(=共認力)が身について行くのではないでしょうか。

 もちろん、そんな場では、高齢者と言えども評価圧力に晒されて、その評価を受けて、次は、一歩向上させて行くというプロセスの繰り返しになります。決して、遊びでやっているわけではありませんから。

 すこし、ずれるかも知れませんが、
 評価と活力上昇という意味では、最近、全国で活況と言われる農産物直売所、ファーマーズマーケット(高齢の生産者も多い)が参考になります。
 そのようなところで、特に、賑わい、生産者側の活力も上がっているところは、評価システムを整えているところが多いようです。
 そこでは、地場産、新鮮、顔の見える関係というお題目だけでなく、生産者毎に、各出品目の売れ行き状況の情報を毎日携帯電話へ送ってくる。しかも、他の生産者の出品目の売れ行きもわかるようになっている。
 こうなると、今まで、各農家は、自分の作った野菜が一番と自負していたものの、売上という誰もが認める評価指標によって、意識を変えざるを得なくなった。
 そこで、他より売れ行きが悪ければ、その原因を考え始める、味に違いがあるのかと実際に買って食べ比べてみる。あるいは、包装や量目の設定が原因なのか、時期の問題なのか、どういう人が買っていくのか、試行錯誤する。あるいは、売れている商品でも、もっと高い価格でも売れないか考えてみる。もちろん、お客さんの声を聞く。
 これは、お客さん(相手)を対象化し始めたということです。

 もちろん、一般企業では、’いろはのい’にあたることですが、今まで、そんな意識の無かった一般の農家のおばちゃん(おばあちゃん)が評価システムの導入によって、否応も無く、そういう意識になったということが大きなヒントになると思います。

 そして、結果的に、工夫して、売上が伸びるという成果があがることで活力が上がる、さらに直売所全体の売上も伸び、益々活況となり、みんな活力が上がるという好循環になっているそうです。

 もちろん、既存の市場のシステムから抜け出たわけではありませんが、生産圧力のある場での期待と評価、それに応えること=役割という良い事例ではないかと思います。

 考えてみれば、仲間との期待応望を最強の活力源として生き残ってきた人類にとっては、生産圧力のある場での子供の教育、高齢者の役割は当たり前で、つい最近まで本源的共同体が残存していた日本では、すんなり受け入れられる素地は充分にあると思います。そのためにはちょっとした(しかし、決定的な)認識転換が必要なだけです。

長谷暢二

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活力再生の場としての農業

農業をやっていく中で植物は常に生長し季節もどんどん変化していき待ってはくれない。そんな中でただ時間に終われ、労働力不足や低収入などに嘆いている状態では全く活力も出ない。

>この農業の低迷は、農業にこれだけ魅力を感じている人がいるにもかかわらず、それを価値に反映できていないことの問題であり、農業をいまだにモノの魅力で売ろうとしている事の問題なのだと思う。

これからは活力の出る場を供給する事自体が、一つの仕事になりえるとすれば、農業にもその可能性は十分にある。

>これは、「手軽に創れる」「創意工夫が出来る」という趣味的愉しみから始まります。そこから非常にスムーズに、「だから誰でも生産者になれる」「だから色んな商品を提供できる」へつながり、そして、それが評価されてみんな(=お客さん)も喜んでくれるからやめられない、と嵌ってゆく人が多いそうです。

農業に関して言えば、日々の様々な作業や季節ごとの取り組みがある。アイデア次第では農産物の加工や食を通した楽しみ方などもできる。これら集団生活の中で得られる課題共認や充足体験をフルに活用していけるような企画を通して、みんなが楽しんで参加できる農業への転換が期待される。

しかし、これまでのように自分たちの生産課題が中心の農業をやっていると直接的に課題を共有し合えるような人と触れ合う機会も少なく、みんなの期待や評価が掴み取りにくい側面が出てくる。

そこで、場に直接参加できる受け入れの農業体験や就農研修を技術や就農指導だけでなく、可能性を感じる活力再生の場としての農業をコンセプトに、手軽に参加できる年間プログラムを構築してみてはどうかと思う。その中で行われる新しい企画や取り組みも、参加者と共に充足できる中身や可能性を探索していく。

そのような活動を行う上で、興味を持った人がたくさん集まってくること自体が評価軸になれば、みんなの期待ももっと明確になってくるのではないでしょうか。

芝田琢也

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安心感は共同体の中にある

>人類の食は500万年を貫徹してみんなと共にあった。

>みんなとみんなをみんなで統合する場で食することこそが本来の安心なのだ。

食に対する皆の期待って何?⇒安心感
じゃあ安心感って何?⇒統合感

みんなの食への期待の中身がとてもダイレクトに繋がってきたような気がします。安心・安全の根底にある統合欠乏。
その統合欠乏⇒共同体期待なんじゃないかな。

安心基盤がある=統合されている=全て(生殖・生産・消費・死)を包括している=だから安心。

農業に携わるようになって一年が過ぎました。私のいる農園ではメンバーが同じ宿舎で共同生活しています。
今思うのは、「ここは安心できる」ということ。
この安心感はどこからくるのか?

以前「農業に携わっている人はどこかどっしりしていて落ち着いている。それは食糧生産という安定基盤を持っているからだろう」と言われたことがあります。私も「あぁそうなんやぁ!」って思っていたし、それもあると思います。けど、今の時代(特に日本で)食料基盤への不安ってホントにあるのでしょうか??

不安の中身が統合欠乏からくる共同体欠乏であるなら、とてもしっくりきます。今私の中にある安心感の中心は“食料がある”ことではなく、“全てがある・みんながいる”ということ。

安心できるこの場所で、私は将来子供を産み、育てたいと思う。そして農園メンバーの皆に親になって欲しいと思える。
こんな風に思える安心空間が、食への期待を通した本当の期待だったりはしないでしょうか。

鹿村幸代

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「農業」は「物的生産」から「意識生産」に転換しているのでは

 私は、(少なくとも日本国内の)農業は、その生産としての本質は、すでに「物的生産」ではなく、「意識生産」に転換しているのだと思います。
※「意識生産」=情報や教育や設計あるいは風俗や介護等、類的な価値=意識を産み出す生産様式
(実現論9_1_04、実現論9_1_05参照)

■あるおばあちゃんの生活
 こういう話を聞きました。
 あるおばあちゃんが、田舎で細々と農業を続けていて、作物を村の人たちに行商をして回るのだそうです。村の一軒一軒に、おばあちゃんが回りに来て、軒先で世間話をする。
 一人暮らしや寝たきりの老人も少なくないので、時々顔を見せにやってきて、野菜を売りに来てくれるのはなかなかありがたいことらしい。
 お互い、元気でいるか確認できるし、おばあちゃんも、みんな野菜を買ってくれるので、それを心の張りにして、毎日畑に出る・・。

 私は、この話を聞いたときに、このおばあちゃんのやっている農業は、物的生産ではなく、意識生産なのではないか?と思ったのです。

■問題は活力にあった
 まず、おばあちゃん自身の意識の問題です。福祉施設に閉じ込めるよりは、日々農作物を作りそれを売るという「仕事」をしている生活のほうが、よほど人間的でしょう。わざわざ700兆円もの借金をして社会保障制度を作ることが、実に馬鹿らしく思えます。
 次に、おばあちゃんの周りの人の意識からも、それがいえます。一人暮らしや寝たきりの人の顔を見にくるのは、現代では、福祉の仕事ということになっています。しかし、このおばあちゃんは、別に当たり前の生産行為の一環として、普通のこととしてそれをやっているのです。だとすれば、福祉の仕事そのものが、なんとも不自然な仕事に感じられます。

 クルマに載ってスーパーに行って野菜を買うこともできるかもしれませんが、「おばあちゃん」が今日も元気にやっている、その活力いっぱいのおばあちゃんから買う、というところに意味があるわけです。

 つまり、このおばあちゃんの農業の本質は、活力再生事業なのです。問題は活力にあったわけです。

■農業への期待の中身は意識生産(類的価値)の領域
 私は、上記のような構造は、社会的、時代的なものだと思います。

 例えば、日本で、有機農業運動がはじまったのは、貧困が消滅した1970年代です。
 「物的生産」の領域を脱した時に、初めて食物の「安全」や「消費者との連携」という「意識」の問題が、顕在化したわけです。最先端の意識としては、1970年代から意識生産に転換していたのです。
リンク
 現在、兼業でも農業を続けている農家の多くが、「まあ、先祖代々からの畑だから、ほっておくのも申し訳なくて・・」というような理由で農業を続けているのも、もう物的な問題ではない、意識の問題だからなのかもしれません。

 また、農業に期待されている「教育」、「やりがい」、「顔が見える」、「安全性」といった役割、キーワードも、すべて意識生産(類的価値)の領域の話です。「顔が見える」というのも、顔写真が貼ってあれば買う気になるわけではないでしょう。目に見えない意識の話だからです。

■「補助金」では意味がない理由
 上記のような仮説が正しいとすれば、いくら「補助金」という私権原理のカンフル剤をばらまいたとしても、まったく可能性はないでしょう。現実に、活力はどんどん衰弱するばかりです。

 極端に言えば、単に、儲ける、食料を手に入れる、というのであれば、別に自給する必要はないと思います。例えば、賃金のより安い他国から買ってもいいわけです。しかし、豊かな社会に生きる現代人が、なんとなく、自給率の低下に釈然としない思いを抱くのは、類的な何らかの価値が社会から失われていく感覚を抱くからではないでしょうか。
 市場原理の中で、農業を物的生産であると考えれば、どこまでも価格競争の中で衰退していく、負けていくしかないでしょう。
 しかし、実は本質は意識生産であり、制覇力となるのは認識力であって、私権の力よりは共認によって統合させていくほうが、活力が上がり、したがって生産の成果を左右するのだ、その結果、当然物的にも確かな品質のものを生産できるのだ、と考えたほうがスッキリする、勝てる可能性が見えるように思えます。
 「顔が見える」「市場を超える」とはそういうことなのではないでしょうか。

※また、実は、本来、農業というものは、そういうもの(=意識生産)だったのだ、という言い方もできるかもしれません。農業は一人の力ではできませんでした。常に、集団課題、統合課題=「みんなの課題」としてあったわけですし、単に物質を投入すれば成功するのではなく、認識力を全開に作動させる必要があったのです。
 だとすれば、これからの農業は、その本源性に戻っていくこと、原点回帰なのだ、ともいえるでしょう。

阪本剛

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自然農法は宗教か?

現在「自然農法」といえば、福岡正信氏の提唱する「不耕起、無肥料、無農薬、無除草」を指すことが多いが、その技術たるや、簡単なようでなかなか難しく、始めても挫折してしまう人が殆どらしい。
頭の中だけで“あるべき姿”を思い描き、「いつかはあんな風に…」というような、半ば“自然農信仰”と化しているのが現状のようだ。

福岡正信氏の自然農法に関する記述があった。
「office-ebara」

(以下引用)
 
「自然農法の作り方は、極めて簡単明瞭である。秋稲刈りの前に、稲の穂波の頭から、クローバーの種と麦種とをばら播いておく。数センチに伸びた麦を踏みながら稲刈りをする。三日ほど地干しにしてから脱穀。そこでできた稲ワラ全部を、長いままで田圃一面にふりさらしておいて、鶏糞でもあれば 3 ~400ふりまいておく。次に稲の種籾を土団子にして、正月までに、ふりまいたワラの上にばら播いておけばよい。これで麦作りも籾播きも万事終わりで、麦刈りまで何もしない。作るだけなら10アール当たり 1~2人の労力で十分である。

 5月の20日頃、麦を刈るときには、足下にクローバーが茂り、その中で土団子から籾が数センチの芽を出している。麦刈りをして地干し脱穀がすんだら、できた麦ワラを全量長いままで、田圃一面にふりまく。田の畦ぬりをして4~5日水を湛めると、クローバーが衰弱して稲苗が土に出る。あとは6~7月のあいだ無灌水で放任し、8月になってから10日か一週間毎に排水溝に一回走り水をするだけでよい。

 以上で、米麦作りのクローバー草生、米麦混播、速続不耕起直播という自然農法の概要は説明したことになる。」(『自然農法』3~4頁ダイヤモンド社)

帰農して30年後にまとめられた福岡さんの自然農法は当時の高度成長のかげりと公害の拡大という70年代後半の時代背景もあって、脚光をあびました。ここにも述べられているように、福岡さんの農法は、無耕起、無化学肥料、無農薬、無除草で、当時の近代農法にはもちろん、有機農業の農法とも異なるものでした。福岡さん自身、「『一切無用』の立場から、ムダな技術、費用と労力を切りすててきた。それを30年積み重ねてきたら、最後は、種を播いてワラをふるだけになってしまったのである。」(4頁) と述べています。

 「食糧を生産するというけれども、百姓が生命のある食物を生産するのではない。無から有を生む力をもつのは自然だけである。百姓は自然の営みを手伝うだけだ。
 農業の本来の在り方である自然農法は、無為自然-手も足も出さないダルマ農法である。八方破れに見えるが厳しい無手勝流で、土は土、草は草、虫のことは虫にまかす広大無辺・融通無凝の仏農法である。がしかし、決して放任ではない。」(6頁)

(中略)

 自然農法の技術開発から砂漠化防止の技術へと進んで行った福岡さんの技術の神髄は自然の身になって人の営みを規制しようとするところにあります。福岡さんはそれを「一切は無」というように哲学的に表現しています。

 ところで福岡さんは、自らが開発した自然農法が普及していかない原因を、人々が無の哲学を体得していないことに求めています。無の哲学がないから、自然農法がやれない、というのですが、これには疑問があります。というのも、農業の技術のあり方は、人々がどのような社会を形成しているか、ということと密接にかかわっているからです。

(引用終わり)

この記述を読む限り、自然農法の根拠は「一切は無」という哲学しかない。では、その「一切は無」は一体どこから生まれたのか?恐らくそれは、近代科学、化学農法に対するアンチ、つまり現実否定ではないだろうか。

言うまでもなく近代(化学)農法の問題は、市場拡大に伴う大量生産・大量消費を実現させるための、行き過ぎた化学物質の投与にある。従って、真っ先に総括が必要なのは、この市場社会であり、人々の消費生活そのものであろう。にも拘わらず、目先の都合の悪い現実だけを捉え、それに背を向け、頭の中を充足させる観念に収束していく。これでは宗教や近代思想と何ら変わりはない。

自然農法が普及せず、半ば宗教と化している(“信者”にしか指示されない)原因は、ここにある。

この著者の言うように、農業技術は、社会のあり方や人々の暮らしと密接に関わっており、農法それ単独で考えることは、殆ど意味がないのだと思う。もっと言えば、社会のありかたと共に変化していくのだと思う。

社会は序列原理から共認原理に大転換した。そして、みんなの共認を統合軸とする共認社会へと移行していくだろう。だとすれば、その新しい社会に相応しい、或いはそれを実現するための農業の役割や農法を考えていく必要があるのだと思う。そしてその過程において、あらためて自然農法の可能性が見えてくるのではないか。

そのためにも、自然農法について、もっと科学的に(事実に基いて)根拠付けることは不可欠だと思う。

小松由布樹

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民活事業も実現派の論理で提案。

 官業ヘの民活導入の本音は云うまでも無く、官の財政破綻が契機だ。
 飢えの圧力から開放されて30年を過ぎても、政治の55年体制や政策のシビルミニマムから抜け出さず税金を垂れ流し続け、国民の活力を衰弱させ社会を閉塞させてきた。政治家と役人が「弱者」や「権利主張者」のような「要求派の需要側」ばかりを税金投入のターゲットにして来たからである。
 民活事業に参画する民間側に期待されるのは、税金投入政策のターゲットを「要求派の需要側」から「実現派の供給者側」にシフトさせる事業を提案することであり、「市民発のみんなの期待」として推進していくことである。

 農業の領域では、官と政が捻り出した数々の補償金政策(農業者の麻薬漬け)が行き詰まるなかで、(それに比較するなら桁違いに僅かな助成金で支えられる、)都市の若者をターゲットにした「就農定住事業」の様な農村集落の活力再生事業が注目され出して来た。
 都市から農村集落に就農・定住する若者と、その事業を立ち上げる企業に対して支給される僅かの税が活力再生資金になって、彼らは農村集落と生産力の活性化を主導し始めている。農業から半分足を洗いかけた人への(負の)補償金や助成金が、明日の農業を担う若い研修生にまわされる事で、活力再生事業の全国展開が可能になることを示唆している。 
 
 年金に甘んずることなく立ち上がった高齢者と企業に、集住自立・結社就業を目指す「生活基盤再生事業」等の活力再生資金として投入されるならば、相互扶助の介護事業や経験を生かした子育て支援事業のような、高齢者主体の生きた仕事を切り開くことが出来そうである。
 ガタガタになった家庭や学校に代わる子供達の教育事業は、高齢者の生き甲斐再生事業等とは、比較にならないほどの豊かさと重要さを持っている。

阿部紘

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教育も農業問題も供給発

>現代の教育の場、家庭も保育園も幼稚園も、そして、学校も子供達の共認源回路を捻じ曲げてしまう”自我(=自分)”を原点とする、狂った自我教育”の”場”でしかない。

こういった完全に行き詰まった家庭・教育の突破口として、なんでや劇場「経済破局は来るのか?市場の軟着陸は可能か?」でアイデアが出ていました。

>「需要発から供給発へ認識を転換」
この認識に基づいて出されたのが、農村に小・中・高の全寮制の学校を作るというもの。
何で農業?って思ったけど、農業が子供に与える影響は、多大の様です。

>農の持つ「効用」で、実感上及びデータ上確かめられていることとして、自然体験や生活体験(果物の皮をむく、野菜を包丁で切る等)の有無や頻度と、道徳観・正義感(ex)友達が悪い事をしていたら止めさせる、席を譲る等)とは強い相関関係がある
おそらくそれは、自然の圧力を前にしての自己の制御、自然の持つ癒し効果による充足感情、協働作業による達成感や一体感の充足の体験等に起因するものと考えられます。また体や手を動かす事と、自我の制御とが何らかの形で関わっているのかもしれません。
>物言わぬ植物達の、ほんの僅かの現象上の変化を、応望回路を用いて捉え、その植物たちの声に応える事で充足を得るという形で、日常は「自我」の圧力が邪魔して開けない応望回路が素直に開かれていく。作物と接するということはそういうことなのではないか?

しかも、高齢者がこういった子供の世話をしたり、農業や生活の知恵を伝承したりすることによって、大量に高齢者の仕事も生み出せるというもの。
これによって、農業問題にも突破口が開ける。

たった認識を一つ転換するだけで、いろいろな問題の突破口が見えてくる!

三輪歩未

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農業の場で共認経済は芽生えている。

>従来の経済学の基礎は、人は(無限に)物や金をほしがる、という原理に基づいてつくられている。この原理は、すべての人にとって私利私欲の追求が最大の価値であるという、さらに深い原理から導き出されている。

 私利私欲にしがみついている統合階級の政策が、農業の場でもよく分かります。農業の場合は農協。
 農業の場合は、それが少しずつ解放されていっているように思います。

>減反しない仲間たちの作った米を、消費者に直接販売することで、農家の自主自立の道づくりを進めようと思ったんです。自由化に向けて、どういう農業をしたらいいのか。個人に売ろうとしても、どこに売ったらいいのか、何もノウハウがない。そこで、全国に折り込み広告を2千万枚配ったり、米の袋に自分たち生産者の写真を入れたり。最初は100件、200件の申し込みでしたが、3年後には1万人にまでなりました。

 上記サイト上に載っているような動きもそうなんですが、もっと小さいところにも影響が見られます。例えば、数件の農家が集まり、店を出す農作物販売店です。以前なら農協からの圧力により農家が自主的に販売することが出来なかったそうです。しかし、現在は、自主販売を行っている農作物の人気が高いようです。中には直売所が観光ルートに組み込まれていたりする場合もあるほどです。

 店を構える場合や、ネット販売を行っているところなど、販売方法は多様ですがどちらも注目を集めています。

 消費者にとって安全・安心の食物を得る事が出来るというのは大きいと思いますが、それよりも印象的なのが、生産者側です。上記のリンク先の人もそうなんですが、消費者と真正面から向き合っている生産者のイキイキとした活力に満ちている表情が全てだと思います。

>人々は自我の充足から、共認の充足(課題・役割・規範・評価を共に認め合う充足)に意識を転換している。従って、共認充足を人間の行動基準において経済理論を組み立てる、共認経済学が必要となる。

 元々、農家は経営者だったのが、農協を通して販売する生産者になってしまいました。祖父母の家も農家ですが、農協の基準に合わせることを第1にして、規格製品を作っているような感じです。自分達が食べるものは農協の規格に合わなくても美味しいもの(自然に育ったもの)

 自分達の作ったものが真っ当に評価され、消費者の期待に応えていく。農業においても着実に共認経済学の芽が出てきているように思います。

蝦夷穴

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農業と食料自給率

よく農業の意義と食料の自給率の低さの関係が問題になりますが
農業に可能性があるのは、日本の食料の自給率が低いからでなく人間関係を再生するのに適しているからだと考えられます。

食料やエネルギーの自給率の低さを問題にする根底には、「自らの生存基盤は自ら確保しておく必要がある」事が前提にあると思います。
周りの集団等を完全に信頼することが出来ない限り当然な考えであるように思います。
しかし環境問題等が共認され「自然との共生」に見られるように人は、周りの人、自然によって生かされている存在であるという風な「価値観」が生まれつつある現在
一番重要なことは、集団にとって「自らの生存基盤を確保しておく方法≒信頼できる集団のネットワーク化」であると思う。

岸良造

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地域の課題の具体例

>みんなの期待に応える媒体としての農業を考える切口として、自分の農家を超え(⇒脱集団)、かつ実感を超えた”みんな”へ繋がるためにも、『集落、農村全体に役に立つ仕事(課題)』をつくり出すことも重要ではないかと思います。

私達の地域では、ある農産物を産地化しようという取組みを数年前から始めており、今年から、本格始動する為に部会(=生産者組織)を立ち上げています。
部会設立に先立つ事例発表や組織化の提案の為の生産者大会の際、私達の農園から以下のような提案をしています。

1、消費者のニーズという狭い範囲を超えて、社会のニーズにどうこたえるのか!!を発想の原点におくべき。
  →農産物の質や安全性はもとより、環境負荷への配慮や循環型農業への取組みを実現する事、そして、もっと大きな社会の流れをつかむ事が不可欠。
2、社会が本当に必要としている農産物の生産や販売、或いはサービス、取組みが実現できれば、それは社会から評価を受け、採算にのる。
  →取組み(その元になる考え方=認識)を売る、そして、その実現体としての農産物やサービス(ex、イベント、観交農業等)を売る。
3、最も重要な事は、上記のような事を真剣に考えられる、議論できる、そして、活力のある組織(=部会)作りをする事。
  →まず、地域としての協力体制を作る事、そして、問題点や課題、それぞれの役割を共有し、評価も共有していく、又、みんなで、情報を共有し、組織そのものをみんなで作り上げていく、そんなやり方の組織にしていく事が不可欠。
   (具体的には、販売戦略の見直し、栽培技術の見直しを組織的にやる、販売戦略であれば、どういうブランドを作るのか?その為には何が必要か?を徹底的に議論する、栽培技術であればどのような栽培方法がよいのか?具体的に何軒かの農家がいろいろな栽培方法をやってみて、その結果を持ち寄って検討する、そうすれば1年1回しかできない栽培試験が5件やれば5年分できる事になる、又、積極的に他地域の産地や先進農家の技術やノウハウを検討導入する、など、組織的な動きができれば明確な成果が出て、それを共有できれば、一気に産地化が進む。)

この提案には、多くの賛同をいただき、今年の春から発足した部会の幹事をやらせていただいており、産地作りの第一歩としての部会運営を具体的に行っています。
今までの部会や行政主導の会議・研修会では、JAや、行政、普及センターから栽培指導や情報を受け、農家側からは問題の提起と要求・押し付け、不平不満が出るだけ、という状態で、はっきり言って、辟易していたのですが、会議形式をスクール形式から円卓形式に変え、みんなが当事者であり、JAはJAの、行政は行政の、そして農家は農家の課題、役割を明確にしていく事によって、意見が活発に出て、否定的な或いは要求するだけの意見をたしなめ、積極的な意見を肯定していく機運が生まれています。

この組織は、在所や村、町といったしがらみを超えた一定の地域を中心に形成しているのですが、地域全体を活性化する、という重要な仕事(=課題)だと考えています。

まだまだ始まったばかりの取組みですが、何であれ、共認を母体に、そして、事実をもとに、みんなで、可能性のある方向を模索し、実践していく、というやり方は誰にでも受け入れられていくものだと思います。
このようなやり方で農業生産を基盤にして(勿論、儲かる生産にして)、地域を活性化し、農村や地域を越えて、より広い社会に出ていく事で、農(業?村?民?)共同体を再生する事が、農業を変え、社会を変える事に繋がるのだと思います。

まさに、認識と認識を実現していく人達、そして、その実現態と成果が、媒体となって、社会を変えていく事に繋がるのだと思います。

丸一浩

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