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農村を活性化させる為には?

大地の鍬、そして大地の腸となるミミズの役割

おいしく・安全な農作物の追求は、ミミズを中心とした土壌の生態系の豊かさの追求であったともいえる。これからの農を考える上で、改めて先人達がミミズと共に歩んでき自然の摂理を紹介したい。

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『ミミズの土壌学』~からしら萬朝報 より~ 
リンク

<引用スタート>

『大地の鍬、そして大地の腸』

ミミズが土壌に与える影響についてはさまざまな角度からこれを見ることができる。その第一は、ミミズが土壌を耕す力である。
ミミズの名称については「蚯蚓」と記す以外に「土竜」「赤竜」「地竜子」などの文字も用いられる。これはミミズが固い土の中において土塊(つちくれ)を食べて 糞尿を排泄し、さらには餌を求めて動き回ることによって土の中に小さな穴を縦横に開けていくことと関連している。

こうした働きをすることからミミズを「自然の鍬」と呼ぶことさえある。
つまりミミズの土中を耕す力の大きさを表したものだ。もっとも「土竜」の文字は、ふつうモグラの漢字表記のひとつとされる。ところがミミズはモグラの大好物の餌なのである。食べるモグラと食べられるミミズが同じ文字で表記されるというのも奇妙な縁だ。
<中略>

ミミズは土壌に対してまさに「尊い」というべき働きをしている。先に記したように「動き回る」ことで土中を耕す。そして土塊や餌をその口吻(こうふん)でせっせと摂取する。その摂取された土塊や餌が糞として排泄されたとき、「黄金の土」とでも名づけるべき滋味豊かな栄養物を多く含む土として生まれ変わり、しかも根が吸収しやすい形態へと変化して植物に対してよき肥料となっているのである。

そして環帯と呼ばれるあたりから排泄される尿は、やはり栄養価の高い培養液となっている。さらにミミズは死してなお、体内に蓄積された高い栄養価ゆえに、死骸が分解されて地味をより豊かにしていく培養基として働くのである。
<中略>



『ミミズと土壌のサイエンス』

「大地の腸」と呼ばれるミミズにはこんな働きがある。それは土塊を食べる彼らの腸内では、同時に餌として摂取された微生物が培養されることが見て取れる。すべての微生物やカビを摂取したり、これを培養したりしているわけではないが、この培養によって口吻から取り込む土の栄養価を腸内で高めていることはたしかなのである。

アリストテレスはおそらくミミズの形態から「大地の腸」と名づけたのかもしれないが、その実際は自らの体内で土壌を豊かに変え、動物の腸が体内に栄養分を補給するように、大地に栄養分を摂取させる働きをしている点で、まさに「大地の腸」と呼ぶにふさわしい。

大地に栄養分を吸収させようとする「大地の腸」では、植物の生長に欠かすことのできない各種栄養素が濃縮されていく。あるミミズを例にとってみると、周辺土壌に比べて、ミミズの糞では窒素が3倍、燐酸が2.5倍、植物に吸収されやすい無機のカルシウム、カリウム、マグネシウムが1~2倍、また植物の腐食物質である腐食酸が14倍にまで高められていたという。

<中略>

これに対して物理的な働きかけもある。ミミズが土中を掘り進むことによってそこには無数の穴が開けられる。穴の数は時により1立米中800にも達し、その長さは150~200mにも及ぶ。穴の体積はざっと計算して1~2リットル分もある。

この穴に水や空気が入り込む。雨の浸透量はミミズがいない場合の6倍近くにまで及び、平均して、降雨量の約4%がこの穴を通過する。これにより土壌表層の流壊を防ぐ働きをしているのだ。

と同時にこの穴には土中の腐食残渣(ざんさ)が塗り込まれることで栄養分を保持する働きもし、さらにこの穴では作物の育成に程よい有効水分が保たれ、晴天続きや降雨続きによる乾燥や冠水も防ぐ働きをしている。
<中略>

大地を耕し、滋養に満ちた土に変えることのできるミミズとの付き合いは、環境の時代にあって、今後私たちが長く付き合っていかなければならないテーマとなるかもしれない。そう思うとき、コンポストの中でせっせと生ごみを摂(と)りながらこれを豊かな肥料に変えていくミミズの存在に、どことなく愛着を覚え始めた。

<引用終わり>



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専業に拘らない移住就農

新規就農と言うと、技術を習い、資金を溜めて、相当の覚悟をもって、専業で独立就農するというイメージも多いと思います。
また、
「半農半X」と言うと、生活には困らない自由業系の人が、農村に住んで、農業も楽しみながら本業をやるというイメージがあります。

しかし、以下の事例は、移住就農を促進するために、専業にはこだわらず、地域で必要とされる仕事を紹介し、副収入や冬場の仕事として、大いに活用してもらっているもので、生活資金、地域での役割充足という現実的にとても重要な点で、的を射た取り組みであると思います。

7月25日 日本農業新聞からの引用です。
リンク

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就農へ移住者が急増 農閑期の副業紹介 奏功 島根県の「半農半X」制度


経営への不安から、移住後すぐに専業で就農できない人に、農業と兼業できる地元の就職先を紹介する、島根県の「半農半X」の取り組みが、県外からの移住者増に成果を上げている。昨年から就職先を具体的に提示して就農を呼び掛けたところ、県外から移り住んだ人は1年余りで大幅に増えた。制度の利用者からは「農閑期の働き口があることで生活が安定する」「就農への見通しが立てやすくなった」と評価の声が上がる。

 県はこれまで、移住者に滞在費として月額12万円(最長1年間)を助成していたのに加え、2012年から「半農半X支援事業」として、地元の酒蔵といった働き口の紹介を始めた。この結果、制度を利用して就農した人は、それまで2年間で9人だったが、1年余りで13人と急増した。

 兵庫県出身の沼田高志さん(23)は、制度を利用して移住した一人。昨年6月から邑南町で暮らす。島根を選んだ理由を、沼田さんは「好物の日本酒に関わりながら、就農を目指せる“半農半蔵人”の提案に引かれたから」と明かす。滞在費助成があったことも「決心を後押しした」という。

 農作業の経験が全くなかった沼田さんは、昨年6月から今年3月まで、町内の農家で基本的な技術を学んだ。今は15アールの農地でナスなどを栽培する。今冬からは、町内の酒蔵で杜氏(とうじ)の下働きとして働き始める予定だ。

 沼田さんは「この地域は降雪もあり、冬に農作物を栽培するのは難しい。農閑期に働ける場を用意してくれるのはありがたい」と話す。

 酒蔵で働く経験を農業に生かすという夢も持つ沼田さん。「日本酒の付加価値を高められるような酒造好適米を栽培するなど、“半X”ならではの農業にも取り組みたい」と将来を見据える。

 高齢化が進む同町では、担い手の育成・確保が急務。周囲が沼田さんに寄せる期待も大きい。現在、町内の耕作面積は約30ヘクタール。4分の1近くに当たる7ヘクタールは、70代の農家1人が請け負っている状況だ。「沼田さんには、地域を元気付ける若い担い手として育ってもらいたい。町としても、できる限り支援する」と町の農林振興課。就農に向け、青年就農給付金の活用を来年度以降、沼田さんに提案する考えだ。

 県が兼業先として提示するのは酒蔵の他に、病院や福祉施設の看護士など、地域に欠かせない仕事を柱に据える。県は「農業を含めた地域の担い手としても育ってほしい」(農業経営課)と期待する。新規就農者の増加に手応えを感じており、「提案する就職先の種類を増やすなどして、一層の移住者の増加を目指したい」(同)としている。
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そもそも、専業農家と言う捉え方も、市場経済の中での考え方であり、
農業は、本来、生き方そのもの、生活の一部と言えるものでもあるので、専業にこだわらない、移住就農の有り方は、面白取り組みですし、
現在の自給志向からしても、地域で役立つ仕事をみんなで取り組むマルチプレーヤーの方が、合っているのではないでしょうか。



長谷暢二

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21世紀における日本農学の再興をめざして


江戸時代の「農書」には、現代農業が置き忘れてしまった農民の自然観や、心の在り様が記されていました。農学博士・徳永 光俊氏のひも解く、歴史貫通的視点からの21世紀の日本の農学をご紹介します。

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■伏流する「天の恵み」
明治後期以降、文字史料に残ったものから「天の恵み」といった表現は見られない。農学士たちはしようがないとして、はたして農家の気持ちからも全く消えてしまったのだろうか。民俗学者の宮本常一は、日本列島の農山漁村を戦前戦後長年歩いてきた経験から、『忘れられた日本人』で、農山漁村に働く人たちの気持ちを次のように述べている。

「そこにある生活の一つ一つは西洋からきた学問や思想の影響をうけず、また武家的な儒教道徳のにおいのすくない、さらにそれ以前の考え方によってたてられたもののようであった。この人たちの生活に秩序をあたえているものは、村の中の、また家の中の人と人の結びつきを大切にすることであり、目に見えぬ神を裏切らぬことであった。」

西洋から来た学問や思想とは、明治期からの西洋農学による学理そのものである。武家的な儒教道徳とは、江戸期からの中国からの陰陽論の浸透に他ならない。村の中の、また家の中の人と人の結びつきとは、江戸農書の「まわし」であり、目に見えぬ神を裏切らぬことであったとは、江戸農書で言う「天の恵み」に感謝する事ではなかったろうか。

宮本常一は、文字をもつ人々の世界と文字を持たない大多数の農民の世界との間には大きな開きがあり、前者は後者の旧弊と陋習を常に攻撃し、低めに見ようとしていた。そして農業をないがしろにする気風を社会に醸し出し、無文字の大多数の農民たちに卑屈感を植え付けていったと指摘している。

農学士たちからすれば、「天の恵み」など学理では説明つかないことであり、大正期にもなれば学理の普及により、農家は声に出し、文字に著すことなど出来ない空気が生まれていたに違いない。「天の恵み」は伏流せざるを得なかった。

■民間農法の開花
1940・50年代の食糧難の時期、全国各地で民間農法が花開いた。代表的なものは、小柳津勝五郎に師事した新堀嘉一の科学農業、岡田茂吉の観音農法、島本覚也の微生物・酵素農法、山岸巳代蔵のヤマギシズム運動、楢崎皐月の植物波農法などである。これらはいずれもそれまでの学理一辺倒の農業観を排し、窒素・リン酸・カリの化学肥料に頼る数量的農業に対し、肥料に頼らず作物の力そのものを十全に発現させようとするものであった。また、目に見えない非現象の世界を重視することもあった。

しかし、1960年からの「基本法農政」のもとで化学化・機械化・施設化がすすめられ、生産性、効率性、収益性などの数量的把握で農業生産の優劣が決められるようになっていった。この優勝劣敗の競争世界のもとで、民間農法は「非科学」「不経済」のとレッテルを張られて、「科学的」農学・経済学によってまさに「弾圧」されていった。

これらの民間農法が再び息を吹き返すのは、1970年代から農薬汚染による食べ物の安全性が問われ、食糧自給が心配され出してからである。有機農業や自然農法が言われはじめ、福岡正信や川口由一らが活躍してくる。彼らは江戸農書と同じように老荘思想や陰陽論など中国思想を援用しながら、自らの農法の原理を説明しようとした。江戸農書への直接の言及はないが、その内容は江戸農書への回帰といってよかろう。

■「土地相応」による「まわし」の再興
農民作家山下惣一は、福岡県唐津市における50年以上にわたる農業経験をふまえて、『ザマミロ!農は永遠なりだ』(2004)において、普通の農家の本音を余す所なく語っている。

現在はやりの有機農業や環境保全型農業に対して、本人たちの思惑とは別の現象として、一般の農産物とは違うという「差別」、農業機械や農薬・化学肥料を使い、ビニールハウスなどの施設利用を進める近代的農業には与しないという「排除」、自分たちだけが正しいという「独善」の三つの論理がまかり通っているのではないかと、心配する。

近代化を超えるとは、昔に戻る事ではなく、近代化の技術と経験を活かして「原理原則」を決して行きづまることのない循環、「まわし」の基本に到達させることだという。農を軸にした成長を必要としない小さな循環型社会を地域の消費者とともに目指そうと呼びかける。まさに、江戸農書の世界である。山下は言う。日本から農業は消えたりはしない。農は永遠なりだ。この国と国民に農業を守る意思がないのなら、百姓は独立するぞ!

■「天の恵み」の再興
福岡県の農業改良普及員であった宇根豊は、1990年代後半から「農と自然の研究所」をたちあげ、『国民のための百姓学』(2005)で新しい自然観・農業観の形成を呼びかけている。従来の農業の価値は生産効率で測られてきた。その尺度としてカネを採用するのは当然である。その結果、カネで評価できない世界は抜け落ち無視することになった。その世界を日本列島の住民たちは、伝統的に百姓仕事の「めぐみ」として表現してきたが、農学はそれを対象化することが出来なかった。

生きものにはカミが、タマシイが宿っており、百姓とともに生きてきた。そして両者のタマシイは交流することによって、百姓のカミ、タマシイも活性化されてきたという。それが「めぐみ」の内容である。まさに、江戸農書にいう「天の恵み」ではないか。こうした世界を科学や農学の対象でないというなら、農学は農の全容の表現・評価を放棄したちっぽけな学だと決めつけるしかないと言う。全く賛成である。

■主客合一の日本農学の再興
宇根と山下は協力して福岡を中心として活動を行っているが、両者の見方は、江戸農書に見られた「土地相応」による「まわし」、「天の恵み」の考え方と同一である。近代農学、普遍科学の名で失ったものが、21世紀に入り江戸農書の鑑であった『農業全書』の著者宮崎安貞の故郷の地で、300年を経て復活したのである。

主客合一の「科学」的な学問と庶民の生きる知恵が結合する日本農学を再興すべき時代が、今はじまろうとしている。


~論文:「17~20世紀における日本の伝統農学と西洋農学による変容、そして再興」より抜粋~



笠原光

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稲作の歴史と日本②


(「稲作の歴史と日本のヒーロー①( リンク )」の続きです。)

■貝原益軒・楽軒の協力のもと全11巻の大書が日の目を見る。

安貞はそんな生活を40年も続けました。その間に「農業全書」をまとめたのです。また、本草学(ほんぞうがく、薬物についての学問)の科学者であった貝原益軒と、その兄である楽軒と「世の中のことを考え、農業を発展させたい」という同じ思いを持つ仲間として親交を深めます。益軒には農業全書の序文を書いてもらい、楽軒には、内容についての訂正や出版の世話を頼みます。楽軒は、書の大半ができてからも、さらに目を通し、足りないところを書き加え、それが本文の10巻の他にもう一冊、付録として付け加えられたのです。

また、徳川光圀公がこの書物を目にとめて誉めたたえたのも、当時無名の安貞だけの力ではとうてい不可能で、水戸にいた楽軒の知人を通して光圀公のもとに届けられたからだ、と言われています。

全10巻と1巻の付録からなる「農業全書」は、第1巻は農業総論として耕作、種子、土地を見る法などについて書かれ、2巻以降は五穀、畑の野菜、山野の野菜、茶、家畜や薬草、施肥、除草や除虫など、農業についてのあらゆるものごとを詳しく記述しています。

■農民を愛し、農民救済のために生きた日本の農学の父
「農業全書」は、元禄十年(1697年)に刊行され、各地に普及しました。明治になって西洋の自然科学による農学書が出るまで、ほぼ二百年の間、近代農業の発展に寄与してきました。

大蔵永常、佐藤信淵は大名のもとでその手助けをし、大名を豊かにすることが目的でしたが、安貞の最大の目的は農民の救済でした。安貞は「農民が技術的に水準が低く、そのために、豊かで明るい生活の道をたてられない」ことを嘆き、自分の能力を顧みず農業の書を著すことを思い立って、この「農業全書」を完成させたのです。

「農業全書」では農業技術のことだけではなく、農政についても確固たる意見を述べています。農民が貧しいことを愁い、穀物の蓄積、倹約に勤めることをも説いています。また、植物の名前をはじめ、ほんとんどの漢字には、読みやすいようにふりがながふられ、イラストも数多く掲載しています。

日本は瑞穂の国と言われ、大昔から農業国として成立していましたので、特別な技術がなくてもある程度の収穫はありました。しかし、農民の発明や発見は親から子へと口伝えに伝えられるだけで、それを書物として記録することはなかったようです。宮崎安貞は、「農民が富まざれば、国富まず」の考え方を貫き技術書を確立しました。「農業全書」は、農業の技術書として重要であるだけではなく、農民の生活を応援する激励の書でもありました。それは長きにわたって、農民の心のささえとなったのです。(引用終了)

宮崎安貞が行った“老農に教えを請い、自らの農地で実践していく”方針は、現代の農業に携わる人達にも通じる方針ではないかなと思います。



塩貝弘一郎

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稲作の歴史と日本①

( 278989 )にも挙げられていますが、
>日本一の農書といわれた『農業全書』
江戸時代以降の自然観や農業観を考えるうえで、文字史料として最も古いものは、江戸時代に書かれた農書(以下、江戸農書と略称)であろう。江戸農書のうちで最も農家に影響力があったのは、1697(元禄)年に刊行された宮崎安貞の『農業全書』である。(引用終了)

この「農業全書」を作る過程において「宮崎安貞」から学ぶポイントがあるなと感じました。

「稲作の歴史と日本・ヒーロー&ヒロイン編( リンク )」より引用させていただきます。

>■各地の農村を訪ね、老農の話を聞いて歩く謎の人物

江戸時代も50年以上続き、世の中が安定してきた寛文の頃、九州から紀伊、伊勢などに、不思議な人物の噂が流れました。武士のように見えますが、刀は差していません。山の形や野の様子、川の水利などをせっせと写生しています。立ち居振る舞いは上品で、お米やお金についての話、日本や中国の昔話などには大変詳しい。では学者かと思えば、手には鋤(すき)や鍬(くわ)を握ったタコがある。全国各地に旅をして、有名な老農を訪ねては、一心に話を聞いている。この武士なのか、学者なのか、農民なのか分からない不思議な人物が宮崎安貞です。大蔵永常、佐藤信淵とともに、江戸時代の三大農学者と言われた一人で、40年以上の歳月をかけて「農業全書」をまとめました。


■刀を捨てて、鍬を握り、中国の農書や老農の教えを実験
安貞は、広島藩主浅野候に仕え、二百石の禄米(ろくまい=給与のこと)を与えられていた豊かな武士の家に生まれましたが、ある時、父は禄米を取り上げられて失業します。この頃は、徳川幕府は武家諸法度などの規則を作り、幕府に協力的ではない大名をつぶしたり、領土を替えたりして天領(てんりょう=江戸幕府の領地)を増やしていました。ついには天領が日本全国の約四分の一にもなり、武士の失業者が全国にあふれました。

ところが、安貞は25歳の時に、二百石禄米での福岡藩の黒田候の家臣となります。武士の失業者があふれるなか、父とおなじ禄米をもらって福岡藩に採用されたのですから、群を抜く才能を買われたにちがいありません。しかしある時、安貞は黒田候の禄米をあっさりと捨てて、旅に出てしまいます。

さらに旅から帰ると、今度は刀まで捨てて志摩郡女原村(現在の福岡市)に住みついて農業を始めます。その間に世は元禄の時代に移り、文学や演劇、絵画などが一気に花開き、数多くの文化人が生まれました。安貞も江戸にいれば、そういう文化人の一人として名をなしたかもしれませんが、彼は職を捨てたばかりか、学者としての道も選びませんでした。ただひたすら村民を励まして開墾を奨励し、自分も鍬をふるって耕し、その合間を縫って中国の農業書をかたっぱしから読み、すこし時間があると近畿、中国、九州の各地に出かけて経験の深い老農の話を聞き歩きました。そして村に帰ると、それらを実際に自分の農地で実験しました。(引用終了)



塩貝弘一郎

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酪農業の新たなモデルの取り組み事例~アーク牧場(30代の若き社長の挑戦)


就職を機に世界と人生を考える! BS寺島 月9トーク(BS12 TwellV) 
第5回放送 (2013年1月28日)より
リンク
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「日本の農業を逞しく蘇らせ、次世代に引き継ぐ」。
この夢に向けて、自らが経営する館ヶ森アーク牧場(岩手県一関市)を舞台に新たな試みに挑んでいるのが、今回のゲスト・橋本晋栄氏です。34歳と若い経営者である橋本氏と寺島は、対談を通じて農業復興の青写真を描きました。そこには、学生が他の産業と同様に、食の生産現場を就職先として選ぶ光景が広がっていました。

 アーク牧場の礎を築いたのは、「養豚界のプリンス」を目指して埼玉から岩手に移住した父輝雄氏です。しかし輝雄氏は志半ばで病に倒れました。橋本氏は大学卒業後の2年間をベンチャー企業の旗手「ファンケル」に在籍し、消費者と徹底的に向き合う経営哲学を学びました。そして、岩手に戻り、日本人の食生活を日本人の作る食料で支えることを目指した輝雄氏の遺志を受け継いだのでした。

 橋本氏が手掛ける数多くの挑戦の中で、寺島が大きな関心を示したのが「大地の米豚プロジェクト」です。このプロジェクトは、2007年にアメリカが打ち出したバイオエタノール政策が遠因にあります。穀物からエタノールを製造するこの政策は、穀物価格の高騰を招き、家畜飼料を輸入に頼る日本の畜産農家を苦しめました。この時、橋本氏はアメリカを視察しました。するとそこには、アメリカが築き上げた強靭で戦略的な農業の姿がありました。そして、減反と後継者不足で遊休農地や農耕放棄地が広がる日本農業とのあまりの違いに衝撃を受けたのでした。

 日本の農業を復活させたい。橋本氏は、減反政策で遊休化し、放置されている農地の活用法を模索し、人の食用米ではなく、アーク牧場で飼育する豚の飼料用の米の生産を構想しました。

 「どこまでアーク牧場とやっていけるのか」と不安を抱く農家の方々と何度も膝を突き合わせ、信頼関係を構築することで、ついに飼料用の米作りが着手されました。その結果、いくつかの遊休農地を蘇らせたのみならず、米を加えた飼料で育った豚は、旨味成分の増加が認められてアーク牧場の人気産品へと成長しました。さらには家畜の排せつ物等を農作物の肥料として活用することで、環境に優しい「循環型農業」の構築にも成功しました。このように大地の米豚プロジェクトは多くの利点を生み出したのです。

 寺島は、さらにこのプロジェクトが日本の食料自給率を改善する可能性に注目しました。例えば鶏卵の自給率は、生産額ベースだと95%以上を誇ります。しかし、カロリーベースではわずか9%に過ぎません。なぜなら、9割以上は輸入飼料を用いて鶏を育てているからです。換言すれば、家畜飼料を国内で増産すれば日本の自給率は大いに改善できるのです。そして、この構想が決して非現実的ではないことを、橋本氏は実績を携えて証明したのでした。

 しかし、日本農業には他にも多くの課題があります。例えば現在、若い就農者が非常に少なく、農業就業人口の平均年齢は65.8歳(平成24年度)と高年齢化は加速する一方です。寺島は、若者が農業や食の生産現場に魅力を感じない理由の一つとして、生産者が額に流した汗に相当する報酬を得ていないことを挙げ、例えば札幌の街中でのトウモロコシ焼きの価格が250円であっても、農家はおそらく出荷時に僅か数円しか受け取っていないのではないかと、仕事も生活も厳しい生産現場の実情を指摘しました。

 この構造的ともいえる問題に対して、橋本氏はいわゆる6次産業の構築で挑んでいます。米豚に関していえば、豚を育てる生産者であることに加えて、ドイツでハムやソーセージの製造加工を学び、さらにはレストランを経営するなど、生産・加工・流通・販売までを一貫して行っています。
 さらにアーク牧場は、動物に触れあうことができる観光地として集客にも成功しています。このように橋本氏は、農業や畜産業が、知恵と工夫で大いに発展する可能性を見事に示しているのです。

 その後、学生の質問をきっかけにファーストフードが俎上にのせられました。寺島は行き過ぎた低価格競争は日本の貧困化の反映と批判し、橋本氏は生産者の想いが込められている食品の存在を、生産者自らが多くの消費者に伝えるべきと論じました。

 さらにアーク牧場の試みとして注目すべきは、一般企業と同等の就労条件で新卒者を定期採用していることです。これは、他の産業と同様に、農業や畜産業を、魅力ある新卒者の就職先にと願う橋本氏の挑戦です。寺島は、アーク牧場のような農業経営法人が増えることで、新卒者はもとより都会で働くサラリーマンにとっても、経験や専門分野を生かした転職機会が生まれるのではないかと期待を寄せました。そして、農業をはじめとする食品分野は、真剣に向き合うならば多くの喜びや達成感を与えてくれる仕事であると、対談を聞いていた学生に強く語りかけました。
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引用おわり


橋口健一

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水稲栽培の収穫高世界記録の秘訣とは?

大量の農薬、化学肥料、専用の種子を使わなければならない近代農法に対して、徐々に広まりつつあるのがSRI農法です。
以下、リンクより引用です。

 水稲栽培の収穫高で世界記録を持つのは、農業研究施設でも米国の大規模農家でもなく、インド北部のビハール州の1人の農家、スマント・クマール氏である。ダルヴェシュプラ村に2ヘクタールばかりの農地を持つスマール氏は、1エーカーの土地から1ヘクタールあたり22.4トンという 収穫記録を樹立した。この快挙を可能にしたのはSRI( System of Rice Intensification:稲集約栽培法)と呼ばれるものである。この記録がいかに突出しているかは、世界の水稲栽培の収穫高が1ヘクタールあたり平均4トン程度であることを考えれば明らかだ。化学肥料を使用しても、平均収穫高が8トンを超えることはまずない。

 スマント・クマール氏の成功はまぐれではない。近隣の4人の生産者も、SRI農法を新たに取り入れた結果、過去に中国で打ち立てられた1ヘクタールあたり19トンという世界記録に匹敵するか、または上回る成果を上げた。さらに言えば、彼らは無機質肥料をごく控えめに用いただけで、農作物保護のための化学薬品は必要としなかった。

◆SRIの成立と原則

 SRIは1960年代、マダガスカルにおいてフランス人のアンリ・デ・ロラニエ・S・J神父が始めた経験則的な農法である。SRIはその後、世界中の様々な条件下で、小規模農家がコメの生産性を上げるのにおおいに役に立ってきた。インドネシアの熱帯雨林地域からアフガニスタン北東部の山岳地帯、さらにはインドやパキスタンの肥沃な河川流域からサハラ砂漠の端にあるマリのティンブクトゥの乾燥地帯まで、SRI農法は実に幅広い農業生態条件下で適合することを示してきた。
SRIで管理を行うと、水稲栽培による収穫高は通常でも50~100%増加するが、時にはスマント・クマール氏の場合のように、驚くほどの成果が上がることもある。種子の必要量は大幅に減少し(80~90%減)、灌漑用水の必要量も減少する(25~50%減)。土に十分な有機物を与えることができれば、無機性肥料はほとんど、あるいはまったく必要なく、農作物保護のための化学肥料は、必要だったとしても、とるに足りない程度だ。SRIで育成された農作物は概してより壮健で、干ばつ、極端な気温、洪水、暴風雨被害などの逆境に対する耐性も高い。

SRIを用いると稲体と根の生育が劇的に良くなることが多い。
 SRI農法は主に4つの原則に基づいており、それらは相互に作用して相乗効果を上げる。
・最初から慎重に、健康な苗を確実に育て、根に栄養を与えて、潜在力を高める。
・植え付ける数を減らし、各苗が地上および地中でのびのびと生育できるようにする。
・有機物で土を豊かにし、空気を十分に含ませて、作物の根と土壌中の好気性生物の生育を促進する。
・作物の根と土壌微生物の成長に役立つように適切に水を与え、一般的な堪水はしない(嫌気性にしない)。

 これらの原則を実践する灌漑水稲栽培の方法は数多くあるが、典型的には次のようにする。
若い苗を一本ずつ丁寧に、十分に間隔をあけながら、一般的には碁盤目状に植え、稲体と根が十分に伸びることができるようにする。
根と有益な土壌微生物の生育のために十分に水を与えるが、やりすぎてそれらのいずれの呼吸も妨げないようにする。水を与える時期と与えない時期を交互に繰り返す、あるいは少量の水を常時与えることで、適切な状態を維持する。
堆肥、根おおい、その他の有機物質を土にできるだけたくさん与え、「土に栄養を与える」ことによって「作物に栄養を与える」
機械的な方法で雑草の生育を制御するが、雑草は、地表を割って出てくることで根の周辺の通気性を良くすることにおおいに役立つので、この点では雑草を土作りに利用する。
これらを合わせて実践することにより、どのような種類の遺伝子(遺伝子型)からでも、生産性が高く、より健康な作物(表現型)を育てることができる。
SRI農法を用いることで、多くの国の小規模農家が自らの土地、労働力、種子、水、資金で、収穫高と生産性を高め始めている。SRI農法で作られたコメは気候変動による厳しい条件にさらされても回復が速い。だが、このような生産性の向上がどのように達成されたかというと、単純に植物、土、水、栄養の管理の方法を変えただけなのである。
それにより、 50ヵ国以上で、既存の遺伝子のコメから、より生産性が高く回復力がある形質が引き出されてきた。その理由がすべて明らかになっているわけではないが、 文献は次第に増えてきており、SRIによるコメ栽培で収穫高が伸び、作物が健康になる理由は徐々にわかってきている。

SRIの考え方と実践は今や、他の様々な農作物の生産性向上にも広く応用されている。外部からの投入物を少なくして出来高を増やすことは不可能に思われるかもしれないが、それを可能にするのは重点の移行だ。つまり、植物育種によって遺伝子的に植物の潜在力を高めることではなく、作物の生育に最適な環境を与えることを考える。

中略
◆パラダイム・シフトなのか?
哲学的には、SRIは植物主体農業の統合システムとして理解できる。SRIを構成する各活動が目標とするのは、空間、光、空気、水、栄養物など、何であろうと植物が必要とするものを最大限提供することだ。そこで、SRIは私たちに次のような質問を投げかける。「もし、あらゆる点で、植物が成長するのに最善の環境を可能な限り与えられたなら、どれほど良好な結果や相乗効果を目にすることになるだろうか?」
すでに、世界中で約400~500万人の生産者がSRI農法を稲作に用いている。SRI農法の成功の裏には多くの要因がある。SRI農法は高リスクに見えるかもしれないが、実際には作物損失のリスクを下げている。生産者にとっては、なじみがない技術に手を出す必要がない。多くの投入物の費用を削減できる一方で、収穫高が増えるので収入も上がる。最も重要なのは、生産者が自ら、すぐに効果を目にできる点だ。
このプロセスがどこで終わるかは誰にもわからない。SRIのコンセプトと実践は、これまではほとんど常に収穫高の増加につながっているが、その中には他の人たちよりも突出した成果を上げる生産者もいて、その理由は完全には明らかではない。植物のミクロビオーム(微生物群の全ゲノム)が影響していることを示す観察結果も増えているが、栽培環境最適化のこの戦略はまだ緒についたばかりだということ指摘されている。

引用終わり



匿名希望

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赤字兼業農家が農業を続ける理由とは?~これからの農業で第一義にすえるべきもの~


日本には兼業農家が多いというのはよく知られたことですが、ほとんど赤字だといいます。
それでも農業を辞めないのはなんでなのか?そこには、今後の農業のあり方を考えるヒントがあるかもしれません。
国や農協は、大規模農業ばかり推奨しますが、小規模農業の中にこそ可能性が見つかるかもしれません。


以下、著:津野幸人「小農本論‐だれが地球を守ったか‐」より引用。
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多分、中国に端を発したであろうと推定される血食(血は祭に供する牲の血の意。子孫が続いて先祖の祭をたやさないこと)の思想は、東アジア原住民の血脈尊重の根本意識であって、家を解消して夫婦を単位とする家庭の観念は、少なくとも古来からの伝統思考からは導くことはできない。意識革命によって用意に伝統的観念を脱皮できるものであろうか。深く記憶に沈潜した意識による家が突如として復活するのではあるまいか。小農の存在がある限りその可能性は大きいと考えられるのである。

ひるがえって、はげしい社会変動のさ中にあるわが国の農業をみるとき、際立った特徴が認められる。それは、高度な産業社会のの実現にも拘らず、依然として残る農家数の多さである。戦前に550万戸を数えた農家数は、兼業を含めるとはいえ、今(1991年現在)なお400万戸もある。

近世農業史をひもとけば明らかなとおり、はやくからわが国の農村では、二、三男を分家するに足りるだけの農地の余裕はなかった。彼らは町場においてもそれぞれの家を興したのであったが、それは移転しても一向に差し支えのない家であり、本百姓のそれのごとくに農地と一体化した家ではないのである。家督を継いだ農民は文字通りに、一所懸命に農地を管理する。作物の生産額を増やすためには、地力を高める以外に道は開かれていなかった。

(中略)

この集約自給小農民の営農は、いかなる情念によって支えられていたのであろうか。この回答は既に柳田国男によって与えられている。すなわち、「元来百姓仕事の辛苦と忍耐とに向かって、報償として何物があったかと尋ねると、具体的にいえば家の永続の保障であった。」その保障によって念願するところは、「祖先を祭りまた子孫に祀られる国国としては、盆と彼岸とに家の者が自分を祭ってくれるという確信がないと、楽々と老いまた死ねなかった。(中略)東洋人の家という考えの中には、常にこの愛慕の交換と連鎖があった。」(日本農民氏)。

繰り返して言うが、土地と家とは不可分なものであって、日本農民の意識の根底に家があるかぎり、土地は捨て去ることができないのである。兼業農家の存在は表面的には一家経済の問題であるかも知れぬが、その根ざすところは上記の理由による土着定住である。(中略)日本農業を覆っている貨幣経済のベールをかなぐり捨てると、そこに小農の第一義として尊守する実態が見えてくるのだ。土着定住を貫くことによって血脈の永続を期するという本願である。(中略)家の永続が根源的な小農の欲求であるならば、それを無視することはできない。日本農家のほとんどが自給小農に端を発したものであり、なお小農の継続を願うのであれば、その第一義とするところを中心に据えて、それに整合した施策をとるのが正当だと言わねばならないのである。

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小川泰文 

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「自給自足」を売りにネットワーク作り

すこし前の記事ですが、現在の自給志向を先取りする面白い取り組みを見つけました。

自給自足と言うと、やや閉鎖的、市場や世間に背を向けてというイメージが、我々、中高年世代にはありますが、ここでは、「自給自足」を売りに、都市住民や事業家と連携するネットワークを作り、また、自給自足で自立する人を増やして行く実践活動をしている新しい動きのようです。

それが、閉塞した市場経済のしわ寄せをもろに受けた元派遣社員から出てきたというのが象徴的で興味深いです。

日本農業新聞 2011年12月19日 の記事より引用です。

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派遣社員から農家に めざすは「自給自足」 山口県宇部市 西将幸さん


 山口県宇部市で自給自足生活を実践する若者グループ「楠クリーン村」の責任者、西将幸(34)は、工場での派遣労働者から、農家に転身した。仲間と自然エネルギーを活用した持続可能な農業を実践。農家レストランの建設にも着手し、農業に将来の夢を託す。「派遣切り」に遭ったことが人生を大きく変えた。

 同市郊外の中山間地。山あいを抜けると、105枚のソーラーパネルが屋根に並ぶ。楠クリーン村の倉庫兼発電施設だ。「一般家庭に必要な電力量の10倍を生み出す。この発電が活動源なんです」。西は誇らしげに説明する。

 農業にたどり着くまでは苦難の道だった。高校卒業後は就職しても長続きせず、転職を繰り返した。転機は、今から3年前。寒い冬だった。

・雇い止め転機

 派遣社員として長野県の自動車工場で働いていた。夜勤明けの午前8時30分に携帯電話が鳴った。「あと1カ月で終了です」。派遣会社からの事務的な伝達。世間でいう“派遣切り”だった。その工場は3カ月で100人の派遣社員を解雇した。「悔しかった。惨めで思い出したくない」

 悔しさの中、浮かんだのが農業。宮崎県の兼業農家で育ち、土まみれになる両親を見て、農業が大嫌いだった。だがあえて大嫌いな農業と向き合い自分を変えようと考えた。西は振り返る。「やってみたら農作業がすごく気持ちいい。汚れた手と澄み切った青い空を見たら涙が出た」

 それから農業に打ち込んだ。北海道で50アールの農地を借り、大豆を栽培するなど農業技術を習得した。その技術を生かし、目指したのが自給自足生活だ。

 宇部市に来て、もうすぐ1年。野菜や茶、小麦、ブルーベリーなどを栽培しながら、仲間と協力し、電気・ガスに頼らずに生活するエネルギーシステムを構築。メンバー10人を六つのチームに分け、作業を効率化。自給した農産物を都会に届ける「自給クラブ」や、「楠茶」などの商品化を進める「加工品づくり」、発電施設など施設整備する「セルフビルド」などで西が統括する。

・起業家と連携

 新たな挑戦として、地元の起業家とタッグを組む「コラボ事業」を立ち上げる活動を始めた。村外に事業パートナーを探す取り組みだ。お茶やブルーベリーなどを使った商品を洋菓子店などと共同開発する狙い。農家レストランも建設中で、自給自足のメニューにより、消費者を呼び込む方針だ。

 どん底から農業によって救われた。今度は農業を使い地域を活性化し、雇用を生み出す。「農業を通じて人として自立する人材を育てる手助けをしたい」。農業をビジネスとして進化させる。西の夢だ。

〈地域の概要〉

 宇部市は山口県の南西部に位置し、南は瀬戸内海に面している。温暖で雨の少ない瀬戸内海式気候を生かし、稲作や茶、果樹をはじめ、さまざまな農業が行われている。
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長谷暢二

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自然農法は、最先端の遺伝子農薬農法とも言える。

不耕起・自然農法は、最先端の遺伝子農薬農法です。(リンク )を転載します。
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耕さず、自然のままの土壌で、農薬も肥料も使わず農業を行うケースが増えています。また、不耕起・自然農法を進める団体も増えています。
 
ただ、現状では、このような農法は、ニッチであって、国策としての農業にはなり得ないというのが、一般な理解です。
 
しかし、諸外国(オランダや米国)では、不耕起・自然農法のメカニズム解明が進んでおり、soil fungistasis(土壌静菌性)という科学的な検証が行われています。
 
不耕起・自然農法の特徴は、土壌のpHがどちらかと言うと酸性気味に傾いているので、土壌中の糸状菌バイオマス分布が、通常の土壌よりもリッチな傾向にあります。
 
この為、不耕起土壌では、作物の根と雑草の根の間を、糸状菌の菌糸が網の目のようにネットワークを作っており、これが根の近辺ですと根圏(菌根菌)を形成するような状態にあります。
 
また、バクテリアバイオマスでは、グラム陰性のシュードモナス属細菌が多い傾向にあります。シュードモナス属細菌は、植物の根圏を形成して、菌根菌(糸状菌)との間で、共生関係にあります。
 
このような土壌生態系は、大体80%程度の不耕起土壌で、観察されると思います。
 
さて、不耕起・自然農法で、全く農薬と肥料を使わない場合ですが、まず肥料に関しては、菌根菌が、土壌中からリンを可溶化して、植物へ供給しています。

窒素に関しては、大気中の窒素を土壌に固定する細菌が担っています。それ以外のカリであるとか、マグネシウムであるとか鉄などの無機肥料成分は、土壌中の糸状菌や細菌にとっても、等しく必要な要素であるので、彼らが土壌中からシデロフォアで獲得したり、或いは、有機体の肥料成分の場合は、貧栄養素下で肥料成分を生合成する栄養合成細菌によって、土壌中で生合成されています。
 
菌根菌や根圏細菌は、それらの養分を植物へ供給する見返りに、光合成のおすそ分けを受け取っています。広くは、光合成細菌も太陽光を受けて、土壌バイオマスへの光合成産物の供給者ではありますが、圧倒的な植物の生成量には敵わないようです。
 
さて、農薬ですが、土壌中の細菌は、悪性菌が近寄らないように、或いは、ネットワークを作っている糸状菌が悪性タンパクの遺伝子発現を行わないように、細菌性の抗生物質を生成して、糸状菌を監視しています。
 
シュードモナス属細菌(及び他の種でも)には、非リボゾームペプチド合成酵素があって、それによって、各種の抗生物質(エフェクター)を生合成しています。
そして、その抗生物質で、糸状菌を攻撃します。これによって、糸状菌は、その形態が転換して、毒性が弱まったり、或いは、生育形態を変えたりします。

さらには、これらの細菌は、糸状菌細胞上のキチンを使って、自らを進化させる機能を持っており、例えば、本来そこにあってはいけない、炭化水素(石油汚染物質)等を土壌中で感知すると、炭化水素を分解する酵素発現を即座に行えるように、自らを進化させます。
(最近、このキチン上での細菌の進化が、強毒コレラ菌の発現メカニズムで立証されました。)
 
さらには、土壌中の細菌バイオマスには、数千から数万と言われる細菌がコロニーを作って共同生活していますが、コロニー内の細菌同士で、遺伝子の組み換えを行っています。
これらの組み換えを行う遺伝子群のことを、遺伝子のプールと呼びます。
 
ある種の細菌(例えば、蛍光菌シュードモナス・フルオエッセンス)の抗菌をコードする遺伝子が、このプールに集められて、他の細菌へ水平移動する場合が多々あります。
 
染色体以外の遺伝子をプラスミドと言うのですが、このプラスミドが移動する遺伝子であり、大体どの細菌にも備わっています。
 
ということは、病害の無い不耕起・自然栽培では、抗菌をコードする遺伝子が、土壌中のある一定以上の細菌に存在するという仮説も考えられます。
つまり、土壌そのものが、抗菌性を持っているということです。
 
非リボゾームペプチド合成では、ありとあらゆるタンパク質が合成されるので、最新の医療研究で注目されている酵素発現機能です。
 
つまり、不耕起・自然農法では、様々な抗菌物質を、細菌が管理しており、土壌病害に対して、それぞれに有効な物質を選び出して、土壌中に伝播させていると考えられるかもしれません。
 
この場合、農薬は何かというと、実は製剤ではありませんね。
 
欧州のある研究機関では、あと数十年もすると、水和剤とかなんだとかの製剤としての農薬も、生命形態の異なる生物への遺伝子組み換えも無くなり、農薬とは、遺伝子を土壌細菌に伝播させるだけ、それも、数年に一度程度、で事足りるだろう、という驚愕の予想をしているところがあります。
 
但し、現在では、その技術レベルに壁があり、それを乗り越えることは、遺伝子的に相当に困難な課題でもあります。
  
まあ、ある意味、今の不耕起・自然農法は、最先端の遺伝子農薬を実証実験しているわけですが、、、、、、
もっと科学的に物事を見ることが必要でしょうね。。。。。。。。。



向芳孝

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