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農村を活性化させる為には?

『東京なんてふっちゃえば?』地方で面白いことをやりたい人、集まれ!島根県江津市で移住と起業があとをたたない理由


東京渋谷ヒカリエで面白い展覧会が開催されていました。
『東京なんて、フっちゃえば?展』
この企画展は“創造力特区”江津市のクリエイティブな動きを紹介し、その背景にある地方での生き方・暮らし方を示すことで、“東京で生きることと地方で生きること”を考えるきっかけの場をつくろうと実施されたものです。
その内容を少し紹介します。

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以下転載

江津市は、島根県の西側、海と山と川に囲まれた自然豊かな地域で、人口は約25000人、面積は268.51キロ平方メートルという、人口・面積とも島根県で最小の市です。他の地方都市と同じく、急激な人口減少や高齢化、雇用の不足など、さまざまな課題を抱えています。

しかし江津市は、2006年にいち早く空き家活用事業を始めたり、独自の創業ビジネスプランコンテストを実施するなど、まちの活性化事業に積極的に取り組んできた、ソーシャル的まちづくりの先進地域でもあるのです。

中略

◆仕事がないなら、ビジネスプランをもった人にきてもらえばいい

このようにオリジナリティあふれるデザインが数多く出展された「東京なんて、フっちゃえば?展」。それにしても、“東京からいちばん遠いまち”と形容される江津市に、U・Iターン者があとをたたず、クリエイティビティが結集する理由は何なのでしょうか?

中略

それまでも全国に先駆けて移住希望者に家や仕事を提供する支援事業を実施してきた江津市ですが、2008年のリーマンショックで、その方向性を大きく転換せざるえなくなったといいます。なんと、移住者に紹介できる求人がまったくなくなってしまったのです。

中川さん 空き家はたくさんあって紹介できるんです。でも、仕事がまったくない。それでどうしたものかと考えていたときに、そうだ、ビジネスプランをもっている人にきてもらえばいいんだって思いつきました。
仕事を探すのではなく、仕事を生み出したいという人を支援する。そうすれば、仕事がないという問題はクリアできます。また当時、大手企業の工場が撤退し、大勢の失業者が出ている状況に胸を痛めていたことも、仕事自体をつくりたいと考えるきっかけになりました。

中川さん その様子を見たときに、規模は小さくてもいいから、地域に密着した企業と確かな雇用をつくっていきたいと思いました。

それと、子どもたちに地元に戻ってきてほしくても、どうしても職種が限られていたんです。若い人にとって魅力的な、クリエイティブな仕事っていうのはほとんどありませんでした。だからそういう仕事を増やしたら、子どもたちも帰ってきてくれるのではないかと感じたんです。

そこで中川さんは、江津市でビジネスプランコンテストを開催したらどうかと考えました。その仕組みづくりをしていく中で、地域のキーマンに声をかけて設立したのが創業支援や人材育成を行う中間支援組織「NPO法人てごねっと石見」です。

中川さん それまでは、行政は行政という感じで、横のつながりはほとんどありませんでした。でもこれだけ人口が少なくなっているのだから、総力を結集しないと未来がないと思ったんです。それで、みなさんに声をかけました。バラバラに活動していても、江津市を元気にしたいという想いはみんな一緒でした。
「てごねっと石見」は、設立のきっかけとなった地域課題解決型ビジネスプランコンテスト「GO-CON」の運営や地域づくり講座「ごうつ道場」の開催など、さまざまな形で、多くの創業者や移住者を支援してきました。その活動が評価され「第5回地域再生大賞」も受賞しています。

中川さん 「てごねっと石見」が創業者や移住者の受け皿となったことで、どんどん人が集まるようになりました。創業した人が別の人を連れてきて、行政が知らない間にそれぞれが手を組んでまた面白いことをやって…というふうに私たちの想定を遥かに越えた動きが起こり始めたんです。
行政が住民の夢や目標を支援し、やがてそれが自走を始め、次の展開までつながっていく。江津市では、住民主体の、理想的なまちづくりの形が生まれているのです。

中略

◆目的のない何十人より、目的をもった“ひとり”が大切

地方に移住する人は、年々増えています。それも、ただ田舎暮らしをしたいというだけでなく、やりたいことを実現するための場として、地方という選択をする人が増えているのです。仕事をつくろうと考えたとき、あなたがクリエイティビティを発揮でき、暮らしたいと思える土地はどこでしょうか。

東京という人もいるかもしれません。小さな離島だという人もいるかもしれません。そして、江津市だと、ピンときた人もいるかもしれません。

中川さん ビジネスプランコンテストをやっていくなかで“ひとり”が重要だということがわかってきました。何十人も目的なく移住してもらうより、目的をもった“ひとり”がきてくれることが大切です。そういう“ひとり”は、100人ぐらいのネットワークがあったりするんですよね。

そのほうがすごい力が生まれるんだってわかったので、まちを変えるチカラをもつクリエティブな“ひとり”を求めて、これからも定住対策をやっていこうと思っています。




渡澤翼

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都市の「小さな農」は成長市場 家庭菜園の新しいカタチ

簡単そうで、なかなか始められない家庭菜園。「おうち菜園」は、初心者でも気軽に楽しめる新しい家庭菜園を提案し、「小さな農」が持つ可能性を引き出そうとしている。

農村で大規模農業が進められる一方で、都市部では「小さな農」が新たなマーケットをつくり出している。空き地を利用したシェア畑、屋上農園、イベントスペースとしての農地の活用など、都市住民をターゲットにした取り組みは着々と増えている。そこでは、「作物をつくる、育てる」だけでなく、コミュニティをつくる仕掛けとしての農業、食育の場としての農業など、多様な価値が見直されている。

矢野経済研究所が2014年に発表した調査によると、「レジャー農業への参加が幅広い年齢層に拡大」と予測されており、ガーデニング市場規模は約2200億円で堅調に推移、家庭菜園分野の市場拡大も見込まれる。そうした中で、「生産者=わたしを増やしたい」というビジョンを掲げ、2014年に設立されたのが「おうち菜園」だ。同社は、ハーブ栽培セットなどのEC(電子商取引)に加えて、家庭菜園のネットメディアを展開している。

■家庭菜園でコミュニケーション
代表の濱田健吾氏は大学を卒業後、2年間オーストラリアで日本語教師を務めた。帰国後は専門商社に就職、シンガポールやロシアなど海外で新規事業の立ち上げに従事、その後、外資系企業に転職した。仕事は面白く、日々走り続けてきたが、効率化、合理化を追求する仕事のやり方に疑問を抱くようになった。

濱田氏は、ウェブサイトで農業ビジネススクール「アグリイノベーション大学校」を知り、週末に通い始めた。宮崎の田舎で育った濱田氏は、農業に触れることで、「ここが自分の原点」と感じたという。

そして、学んだことを自宅の庭で早速実践。植物の成長に4歳の娘が大喜びする姿を見て起業を決めた。濱田氏が可能性を感じたのは、コミュニケーション・ツールとしての農業、家庭菜園だった。

「作物を育てて共通に感じられるのは、ポジティブだということ。トマトの実が成って怒る人はいないでしょう。誰もが笑顔になるんです」

■EC×メディアで潜在市場を開拓
濱田氏によると、家庭菜園をしてみたい人がいても、そこに踏み込めない理由は3つ。「場所がない」、「時間がない」、「知識がない」。そのハードルを取り払うのが、「おうち菜園」の目的だ。

最初の商品をハーブにしたのは、野菜に比べてタフで強いからだ。

「初めての家庭菜園が失敗に終わってしまうと、再びやろうとは思わないでしょう。ハーブなら誰でも簡単にできます」

また、ハーブなら野菜に比べて、より小さなスペースで栽培できる。選べるハーブは70種類。プランター、土など、栽培に必要なものはすべて揃っていて、届いたその日から水をやるだけで簡単に育てられる。

今年3月の販売開始から顧客の反応は良好で、既にリピーターも多いという。顧客の獲得に向けて強みとなるのは、自社でウェブメディアを持っていることだ。ウェブメディアでは、さまざまなハーブの使い方や世界のハーブガーデンを紹介。ハーブのある生活の魅力を提案し、コミュニケーション・ツールとしての家庭菜園の潜在力を引き出そうとしている。

家庭栽培のキットを提供する企業は多く、ホームセンターなどでも販売されているが、そこに立ち寄るのは目的買いの顧客も多い。「おうち菜園」では、ウェブメディアによる情報発信、ハーブ栽培を楽しむユーザーによるSNSでのシェアによって、偶発的な出会いをつくり出し、潜在的な顧客の掘り起こしを狙っているのだ。

■魚と植物が同時に育つ「未来の農業」
「おうち菜園」の手がける、もう一つのオリジナルな事業が「未来の農業」と呼ばれる「アクアポニックス」だ。

アクアポニックスとは「アクアカルチャー(水産養殖)」と「ハイドロポニックス(水耕栽培)」を合わせた造語で、その名の通り、水耕栽培と魚の養殖技術を合わせた農法だ。

魚を飼えばフンが発生する。それを植物が栄養として吸収し、同時に水を浄化。浄化された水は再び魚の水槽へと戻る循環型システムであり、ユーザーのメンテナンス負担は少なく、熱帯魚を飼うような難しさもなく、魚の飼育と植物の成長を楽しめる。

すでに欧米やオーストラリアでは注目を集めており、海外の調査会社によると、2020年には1000億円市場になると言われている。

「おうち菜園」は、アメリカの企業と共同で商品を開発。生態系を利用して魚とハーブを同時に育てることのできる循環型栽培キットを「卓上ビオトープ」として、今夏に販売を開始する。

アクアポニックスは、企業向けの販売も期待できる。生態系の縮図を体感できるツールであり、教材として小学校などの教育機関に提案できるほか、設置場所や規模が自由自在という特性を考えれば、水資源が乏しい地域での魚の養殖も視野に入る。

海外ではすでに、アクアポニックスを組み合わせた飲食店があり、つくる過程をオープンにし、そのストーリーを含めて料理を提供することが試みられている。

都市住民にとっても身近な農の世界。屋上やベランダ、オフィスなど、都市の隙間に入り込む「小さな農」が、さまざまな形で人々の生活を変えようとしている。



柴田英明

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地方移住で失敗しないための5つのポイント

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地方移住で見落としがちな盲点とは
透き通るような青空、美しい緑、マリンブルーの海、冬でも温暖な気候…U・Iターンに熱心な地域の多くは、都会で擦り切れたビジネスパーソンにとって、ひときわ魅力的で、天国のようにみえるといっても大げさでない。だが、それはあくまでも風景や旅先としての魅力であることを忘れてはならない。

地方移住を推進する自治体は、過疎化が進んでいる場合が多い。それを食い止めるために、都会の労力を引き寄せたいと考えている。移住するだけでも「人口増」に貢献することになるが、地域の人々が期待してるのはやはり、しっかりと産業を動かす人材としての活躍だ。

◆ 1:勢いで行かない
都会で朝から晩まで業務に追われる毎日は、心をすり切らせる。「もういやだ」と、心が折れそうになる。だが、過疎化した地域で、一から業務に取り組む苦労と比較すると、そんな激務も懐かしく感じられるから不思議なものだ。だからまず、地方移住が頭に浮かんだら、一度頭を冷やしてみることが重要だ。勢いで行ってうまくいことはまずないし、腰かけ感覚でとりあえず移住しても絶対にうまくいかない。

◆ 2:出来れば30代までに独身で乗り込む
いつ移住するかも重要だ。社会人デビューがいきなり地方では経験が少な過ぎ、十分に活躍はできない。理想はある程度、社会人経験を積み、プロジェクトの1つ二つを遂行した20代後半だろう。じっくりキャリアを重ねた50代以降でもいいかもしれないが、それならセミリタイアであり、意味合いが多少違ってくる。

さらにいえば、独身で乗り込むのがベターだろう。なぜなら、最初は地域活性にのめり込むくらいの方がいいからだ。配偶者帯同ではどうしても守りに入るし、ある程度、現地で地盤を固めてから結婚する方が、定住を視野に入れるならうまくいくからだ。もちろん、配偶者が移住に積極的で、共に汗水流すことをいとわないなら、こだわることはない。

◆ 3:ITスキルは磨きあげておく
地方移住では、実はITリテラシーが重要となる。アナログな世界に乗り込む感覚で、無防備でいると、痛い目にあうことになる。地方では、都会のちょっとした情報が大きな価値を生むことがよくある。そのための情報収集に必要なのがひとつ。SNSでネットワークを張り巡らせておくことも地域活性には大きな力となる。情報発信のためにも不可欠だ。そして、意外に盲点となりがちだが、思うように収入が稼げない時、ネットを駆使して稼ぎを得られるのは、大きなメリットとなる。

消滅可能性都市、鹿児島県長島町で地域おこし協力隊として活躍する土井隆氏は、大卒後、Eコマース事業に携わった後、29歳で移住。順調な社会人生活だったが、「20代で培ってきた経験を活かせる」と都会ではすでに飽和状態のスキルながら、地域では枯渇している環境に目をつけ、一大決心。卓越したITリテラシーで、地域の特産品を販売するECサイトの立ち上げや町のCM動画を作成するなど、能力を存分に発揮。地域の活性化に貢献している。

◆ 4:月15万生活を基準にする
地方移住で一番気になるのが収入面だろう。お金目当ての人はまずいないだろうが、慎ましく生活することは、絶対条件だ。物価は安いし、住まいも空き家を格安で貸してくれる場合が多く、都会の半分以下でも十分に生活していける。それでも、月の生活費は15万円を基準に考えよう。もちろん、あくまで目安だが、それに対応できるよう、工夫し、対応力をつけることは、移住、定住、そして永住へとシフトしていくなら重要なポイントとなる。ちなみに、先の土井さんの地域おこし協力隊では、年間報償費200万円、活動費年間200万円が基準となっている。

◆5:地域に溶け込む
最後に、一番重要なことは、地域に溶け込むことだ。当たり前のことだが、決して簡単でない。地方にはさまざまな風習やしきたりもあり、都会生活になじんだ人間には、苦痛に感じることも少なくないからだ。もっとも、なにもかも従う必要はもちろんなく、都会流の習慣と融合させていくような姿勢をみせることが、かえって親交を深めることにつながる場合もあるだろう。それこそが、移住がもたらす良性の化学反応だからだ。その意味では、地元の人の声にしっかりと耳を傾けながらも、ほどほどの距離感で最適化を図る感覚でも問題はないだろう。



渡澤翼

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島根県の「食の社」でゆるやかな共同体を実践中

島根県に生涯現役で「百姓」を続けておられる佐藤氏が主体となって立ち上げた「食の社」というゆるやかな共同体を持続されている場があるそうです。

以下、「地域内自給めざす「ゆるやかな共同体」( リンク )」より引用させていただきます。

>◆常に先見性を持ち続けること
(中略) 佐藤さんはそのころのことを社報に「私たちが何げなくやっていた近代農法は、人の心の弱点に付け入った都市の都合。農民の主体性、自主性を棄てさせるものではなかったか」と書いている。
近代農法の「破壊」は当時まだ公害問題などが指摘されていない時代だったことを思えば先見性のある取り組みだったといえるが、実は本当の先見性は故大坂氏と議論しながら、農民の主体性を「創造」するものとして、有機農法への取り組みを始めたことではなかったか。その有機農法の考え方とは、「モノを売って媚びるのではなく、まず自分たちが健康に生きることをまっとうするために食べ物をつくることから始める」である。
昭和53年に日本で初めて低温殺菌牛乳(パスチャライズ牛乳)を販売し、学校給食への供給を実現したのも、その土地で生産されたものを生に近い姿で届けようという考えからである。そこには単なる乳業メーカーというよりも「農民として次の世代へ胸を張ってつなぐことができる生き方を示す集団」(社報より)との考えがある。牛乳も「生き方を考えるための素材」であり、その販売とは「それを作り出す方法も含めて世に送り出す」(同)ことだという。
そんな考え方からすると、昨今の“消費者ニーズに即した生産”について「本来は農民が自己体験のなかから、何をどう食べるか、何を生産するかを考えるべきなのに、今の農業は都市のご機嫌とり農業になってませんか」と手厳しい。

「人としてこの土地でどう生きるのか。農はそのための大切な手段」

◆協同のあり方は地域全体の課題
(中略) 地域の農家が自己の生活を自足するよう生産を始めても、自給度を高めようとすれば、個人の力の小ささや限界に気づき、どうしても協同することが必要になる‐‐。ここから「ゆるやかな共同体」という発想が生まれることになった。
今回訪ねた「食の杜」はその「ゆるやかな共同体」の姿が集約された場所だ。
開設されたのは、平成9年。ここは山間部の荒れた農地を生産者や消費者、研究者、医療関係者など職業も年齢も越えた人々が基金を出し合って自分たちの農場にしたいとの思いで買い取ったのが始まり。
茅葺屋根の築100年以上の農家も移築してメンバーが交流できる場にした。(中略)

◆活性化ではなく沈静化こそ村に
ネットワークを広げ、維持していくその要の人物といえば、強力な自己発信が必要ではないか、と聞くと「そんな構えたものじゃありません。自己アピールほどいやなものはない。必要に応じて人は出てくるし、その範囲でやればいいんです」と言う。
ゆるやかな共同体とは、自分も不完全だし、相手も不完全だと認めることから始まるという。だから、規約、きまりごとなどあまり決めない。
「発展というよりも時代の変化に応じていくということです。変化するものに定款などいらないでしょう」。社長時代は管理されず管理せずが方針だった。
ただし、繰り返し強調するのが「まず自分で実践すること」だ。これは篤農家だった父の姿から受け継いだことだという。
「おやじは必ず自分の畑に試験的に新しい種を播くなど常に新しいことをやろうしていた。百姓は身についたものが知識。頭で考えたことなど正月の計画と同じ、と言われて育った」。
(中略)
「有機農業とは農業だけなく人の有機的なつながりもつくりだすことです」と田中さん。また、12年前から日登牧場で働く非農家出身の有馬みや子さんは「ここに来て分かったのはみんなが自立して共存、助け合う地域だということです」と話す。

◆考えること、生きること
ところが、こうした地域に居て佐藤さんはかつて「ムラには活性化ではなく沈静化こそが必要だ」と厳しく批判した。
この国で地方の活性化が叫ばれはじめた10年以上前のことだ。
その真意は「活性化といっても人として生きるための活性化ならいい。
しかし、叫んでる人はみな経済のことばかり。こっちのムラが良くなれば隣りのムラはだめになる。生きる気迫もないなかで何が活性化か」だ。
平成5年、町は品格ある簡素な村づくりを提唱した。佐藤さんたちの考え方が反映されている。
組織は大きくはしないし、作物の反収も牧場の乳量も平均以下でいいというのも基本的な思想だ。それが本当の食べ物をつくる生産の姿だと考えている。木次乳業の社員は50名ほどである。
佐藤さんの口からは農民の自主自立という言葉が幾度となく出てくる。だから、有機農業といいながらも国の進める認証制度について「基準がなければ国際競争に負けるというが、農家はその土地土地で自主独立して農業をするもの。行政に言われて動くようでは本当の食べ物は見えない」と批判する。
こういう指摘を聞くと、「ゆるやかな共同体」とは、ひょっとするとかなりきついことかもしれないと思う。それぞれが考え自立していなければならないからだ。
「人としてこの土地でどう生きるかが第一。その手段として酪農も乳業もある。自分の足で立とうということです」。(引用終了)

農を中心に自分達の生きる場を自分達で作るゆるやかな共同体。その背後には、「農『業』」にした時点で大量生産・大量販売に傾くと考えておられるそうです。




塩貝弘一郎

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「ブータン農業の父・西岡京治」国王からも爵位。日本人「ニシオカ」はなぜブータンで国葬されたのか?①

世界一幸福な国と言われるブータン。そんな国の民たちの「幸せ」に大きく貢献した日本人がいたのをご存知でしょうか。

mag2newsより引用です
国王からも爵位。日本人「ニシオカ」はなぜブータンで国葬されたのか?
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◇人物探訪:「ブータン農業の父」、西岡京治

1992(平成4)年3月26日、ブータンで1人の日本人が国葬に付された。30年近くも同国の農業振興に尽くして、「ブータン農業の父」と呼ばれた西岡京治(けいじ)である。葬儀委員長は農業大臣のレキ・ドルジ氏。ブータン西部のパロ盆地を見渡せる丘につくられた葬儀場で、なきがらは荼毘(だび)に付された。

おおぜいのラマ教の坊さんたちによる読経が果てることなく続いた。葬儀には5,000人もの人々が弔問に訪れ、西岡の妻・里子と娘の洋子は、和服に似た民族衣装キラに身を包んで、人々のお悔やみの言葉を受けた。

葬儀の後、里子がパロ農場の西岡の事務室に入ると、国王の伯父で厚生大臣のナムゲル・ウォンチュックからの電報が机の上にあった。大臣が視察先のシェムガン県パンバン村から打った電報だった。ブータン南部の僻村である。

パンバン村の人たちは、あなたのことを尊敬の気持ちをもって覚えており、あなたがふたたび村を訪れてくれることを、心からお待ちしております。

あなたがはじめた開発の仕事はいま、実を結んでいます。村人たちは、「あなたの献身的な働きがなければ、自分たちの進歩はなかっただろう」と言っています。かれらはいつまでもあなたに感謝し続けるでしょう。

同様の気持ちを抱いたブータン各地の人々が5,000人も葬儀に参列したのである。

◇「この風景は、長野県の伊那谷あたりによく似ているよ」

西岡がブータンに定住を始めたのは1964(昭和39)年5月だった。日本国内ではその年の秋に開かれる東京オリンピックの準備が急ピッチで進められていた頃だ。

当時のブータンは農業国なのに、土地も狭く、高地で気候も厳しいため、食料の自給もできない状況だった。ブータン首相は「日本の専門家に来てもらって、農業の近代化を図りたい」という意向を持っていた。その専門家として推薦されたのが西岡だった。

その頃、西岡は大阪府立園芸高校に務める傍ら、大阪府大・山岳部のOBとしてネパール探検隊にも参加して、植生の調査をした経験もあった。西岡は自らも海外技術協力団(現在の国際協力事業団、JICA)にブータンの農業指導に派遣してくれるよう志願した。

話が持ち上がってから2年の後に、ようやく事業団から派遣決定の通知が届き、妻・里子と2人で出発した。2人はインドのカルカッタに飛び、オンボロ輸送機に乗り換えて、ブータン国境近くの町に着いた。そこからブータン政府の手配した1台のジープに乗り込み、15時間も山道を走って、ようやく西ブータンの中心地パロに到着した。

一夜明け、木の扉窓を開けた里子は思わず声をあげた。「まあ、きれい!」。目の前にはパロ盆地の大パノラマが広がっていた。澄み切った青空のもとに麦畑が続き、民家が散在している。

「どれどれ…」と目をこすりながら起きてきた西岡は言った。「これはすばらしい! しかし、この風景は、長野県の伊那谷あたりによく似ているよ。日本から、5,000キロメートルも離れた国の風景とは、とても思えないね。」

◇「日本の野菜のタネはすごいや」

西岡はさっそく開発庁農業局の事務所にでかけた。ここにはインド人の局長と技術スタッフがいた。彼らはインド政府から派遣されて、農業の指導をしていた。西岡が挨拶すると、局長はこう釘を刺した。

「ブータンの農業は、インド人のわれわれが、一番よく分かっています。あなたがいきなり、海のかなたの日本の農業技術を持ち込んでも、成功はおぼつきませんよ。ブータンの人たちは、昔ながらの農業を続けていて、その方法をなかなか変えようとしない」

いきなりこう言われて西岡はかちんと来たが、よく聞いてみると、本格的な農業試験場1つ持っていないことが分かった。

西岡はブータン政府に頼んで、200平米ほどの田畑を借りた。そして12、13歳の少年3人を実習生としてつけて貰った。西岡は、まず彼らにダイコンの栽培を教えた。

ダイコンは昼と夜との気温の差が大きいほど、よく育つ。3ヶ月ほど経って、引っこ抜いてみると、30センチほどにも育っていた。少年たちは「わあ、ずっしりと重い」「日本の野菜のタネはすごいや」。

さらにトマトやキャベツなども作り出すと、噂が広がって、知事や国会議員なども試験栽培の田畑を訪れ、「うちの県でも作れようか」「わしの村でも、こうした野菜が作れたら、どんなにいいだろう」と言い出した。

さらに、その1人の勧めで、人の集まるパロ城の入り口に野菜を並べると、「うちの村にも、野菜作りの手ほどきをしてもらえまいか」「タネを分けて貰えると、ありがたいのだが」と大きな反響があった。

◆理解してもらいたい一心で臨んだのべ800回もの話し合い
◇「ニシオカに農場の運営をまかせようではないか」
1966(昭和41)年3月、海外技術協力団からの2年間の派遣期間が過ぎようとしていた頃、ブータン開発庁の担当官がやってきた。西岡の任期を延長して貰うよう日本の事業団に申し入れたい、と言う。

「本当ですか。願ってもないことです。ぜひお願いします」と、顔をほころばせた西岡に、担当官はさらに重大な話を持ちかけた。

「国王が、『パロにしかるべき試験農場用の土地を探し、ニシオカに農場の運営をまかせようではないか』と、おっしゃっておられるのです。いかがでしょうか?」

「えっ、国王がですか…」

ブータンに来てから、この日ほど嬉しかったことはなかった。

パロの長老たちも土地探しを手伝ってくれて、7.6ヘクタールの理想的な土地を見つけた。斜面の上段には、カキやモモ、ナシやリンゴの試験果樹園、中段を野菜畑、下段を水田とした。道をつけ、石垣を積み、水路を引くのは、すべて手作業で自分たちで行った。こうしてブータンで最初の本格的な試験農場が開かれ、「パロ農場」と名づけられた。

西岡は夜は宿舎代わりの仮設テントで、実習生たちと夢を語り合った。妻にも、こんな風に語っている。

「ぼくはここを、試験栽培の農場だけではなく、将来は総合農業センターにしていきたい。地方からの実習生の受け入れ、農機具の貸し出し、苗や種の生産のほか、栽培した野菜や果物を販売したり、ジュースやジャムに加工できるようにもしていきたいんだ」。
続く



志水満

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衣食住を確保するための起業が増加する時代へ

以上引用サイト
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以前までは、就職こそ「安定するための唯一の手段」だと考えられていた。人生で安定するためには、まず就職をしなければならない。そうすれば、「永遠の安定」が得られるだろう、と。

でも残念ながら、どうやらそう「安定」するものでもないらしいことが最近わかってきてしまった。ずっと雇ってくれるわけでもないし、そもそも他人任せでは何かあったとき、とても危うい状況になってしまう。

以前の「就職こそすべて」という価値観は崩壊し、「東日本大震災」を中心として「お金」への信頼が揺らいだ。これから個人が「衣食住を確保」することを目的に、ゆるやかな起業をバンバンしていく時代。自転車で日本全国を回って、「どうやらそんな時代が来そうだぞ」と思うようになった。

2011年の東日本大震災で、「お金」が一時的にでも使用不可になることを体験した人たち。分業社会にのめりこみ、自分で野菜すら作れないということに危惧した人たちが、日本各地に移住して農業を始めたらしい。

また2014年に政府が「地方創生」に向けて動き出してから、地域おこし協力隊の募集人数を一気に引き上げたこともあって、「地域活性」に関するエピソードや書籍なんかが市場に溢れだしてきた。

ITのスキルを身に着けた若い人たちが、WEB上で成果を作り出していくと同時に、土をいじりながら自ら野菜を育てる。かつては「なんやそれ」と言われただろうけど、そんな生き方も珍しくなくなった。

地域で住み、そして地域で自給生活を送るということは、その地域内で通貨や成果物を循環させていくということ。

それは従来の「雇用」モデルには全く合わない生き方で、自分で旗一本立てて生活していくことが前提になる。

地域に住む個人が、周囲の人たちの協力を得ながらも自身で衣食住を得て必要な分のお金を得てゆく。つまりそれって「1人1人が起業して生きる時代」で、グローバル規模でも「これからチーム単位で働くことになるから、個人の力が重要だ」と言っているのとあまり変わらない。

以前、読書をしている時に見た内容でもあるんだけど(題名は忘れた)、これから東京一極集中でひたすら経済を回すグループと、各地域でそれぞれコミュニティを作って経済や物資を回していくという生き方が二極化する気がする。



西本圭

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まちを面白くしたいなら、自分が面白いと思う人を集めればいい。滞在型援農「ワヅカナジカン援農プロジェクト」

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みなさんは”援農”をご存知でしょうか?

援農とは、農作業の収穫期に必要な労働力を増やすことが難しい、高齢化や過疎化が進む地域の人手不足を解消するため、主に都市部で暮らす方が農家へ足を運び、農作業をお手伝いしながら農業を学び楽しむ取り組みのこと。最近では、日本各地に広まっている取り組みです。今回取り上げる京都府・和束町も”援農”が必要な地域のひとつです。昔から高級茶葉をつくる産地として知られ、茶葉の育成から加工までを一貫して行う茶農家が大半のため、繁忙期にあたる春から夏にかけて、短期雇用できる人材探しが必要となるのです。しかし和束町は65歳以上の高齢者が38%を占める地域であり、毎年100人のペースで人口が減り続けている現状があります。人口約4,000人の町内だけでは繁忙期の対応が難しく、とはいえ京都市内や大阪市内から毎日通うには根気のいる山間地域のため、働き手不足に悩んでいました。和束町の働き手不足を楽しい方法で解決したい。そんな思いで都市部から若者を集め、シェアハウス生活を送りながら茶農家で働く地域おこしプログラムが誕生しました。それが今回ご紹介する、「ワヅカナジカン援農プロジェクト」です。

■和束町にUターンを決めた、山下さんの働き方

「ワヅカナジカン援農プロジェクト」の仕掛け人である、山下丈太さん。山下さんがUターンを決めたきっかけは、生まれ故郷の和束町が”2030年には限界集落になる”という新聞記事でした。
山下丈太さん「記事を見て和束町に気持ちが傾いた時期に、ちょうど和束町雇用促進協議会が人材を募集していて、縁あって入ることができました。働き手不足を解消するために都市部から若者を集めよう! そう思い立った山下さんは、シェアハウス生活をおくりながら茶農家で働いてもらうというアイデアを、さまざまな方の知恵を借りながら編み出しました。」そして茶農家の要望をヒアリングし、必要な現場に参加者を送り込むべくシフトを組み、「ワヅカナジカン援農プロジェクト」が誕生。今では受け入れ農家が16世帯に増えましたが、山下さんは「これからも受け入れ先をどんどん増やしていきたい」と考えています。やがてプログラムが終了する頃には、茶農家と参加者がまるで家族の一員のような間柄になるそうです。

■場があることで生まれるコミュニティの面白さ
こうして、着実に広まりを見せる「ワヅカナジカン援農プロジェクト」ですが、一期生の活動がスタートした際にシェアハウスとして利用したのは、元々は山下さんの実家だったのだそう。両親が仕事の関係で神戸に引越したため、空き家状態のところを活用したといいます。2014年のプロジェクト1期生には、計15名が参加。そのうち2人が女性で事務局メンバーの友人や農業経験者、海外からの参加者もいたのだとか! 2015年プロジェクト2期生は山下さんの独立に伴い、新たに立ち上げた「合同会社ゆうあんビレッジ」を母体としながら、ひきつづきプロジェクトを運営しました。活動を終えた参加者の中には丹波で農業をされている方や、宮津で観光列車の仕事をしている方もいれば、そのまま和束町に残って和束町雇用促進協議会の実践支援員をしたり、岡田さんのように和束町活性化センターでハーブ農園の栽培補助をしている方まで。収入は高くないものの、仕事は和束町の中にも意外とあると山下さんは言います。プライベートなことなので名前は出せないですが、1期生からは2組のカップルが生まれ、うち1組は結婚されました。もう1組は毎年この時期になると、お茶の仕事で和束に戻ってくると言います。山下さんによると、3ヶ月のワヅカナジカンの体験で、性格が変わっていく人もいるのだとか。
山下丈太さん「オープンマインドになる人が多いです。二期生で言えば、最初はすごく内向きな18歳男子がいて、みんなも戸惑いがありました。でもこのプロジェクトの良いところは、みんなが前向きなところです。みんなががんばってアプローチしていくうちに、その子も変わってきて、最後にはみんなのためにすいかを買ってきたりして、感動しました。」
限られた空間の中で参加者が少しずつがんばっているうちに、みんなが少しずつ成長していく姿が身近に感じられるそうです。

■和束町の中心地にある、「和束茶カフェ」
山下さんは今年、プロジェクト終了後の参加者とつながりを強くしたいとの考えから、みんなで商品をつくろうと企画しています。
山下丈太さん「実生活に戻ったときにお土産などで渡せる商品があれば、和束町とのつながりが増えて面白いかなと考えています。」
このプロジェクトの一番の目的は、地域や地元産業の活性化です。いろんな方に来ていただいて、和束町のことを知ってもらいたい。そして、田舎暮らしの新しい提案ができたら、と思っています。体験を通じて「農山村地域に住むのは不可能じゃない」と自信を持っていただいて、都市部の若者を田舎へどんどん引き入れたい。プロジェクトが終わった後、「ひきつづき和束町で暮らしたい」と思っていただけるのが理想ですね。和束町から出て行ってしまう若者が多い中、もっと雇用を生み出せるかもしれない。その実現に向けた入口として、山下さんは今後も「ワヅカナジカン援農プロジェクト」に取り組んでいきたいと話します。
山下丈太さん「和束町は地元だし、そもそも僕はコミュニティの結びつきが明確にわかる農山村地域が好きなんです。「この野菜を買うことであの人が喜ぶ」とはっきりわかる世界は都市部に少ないはず。今後、日本は人口が減っていくのは確実なので、自分の住むまちを、自分が面白いと思うような人たちが占めていくと必ず面白くなると思います。そんな未来を思ってニヤニヤしながら働いています。」
山下さんは地域の資源を活かして内側で循環する社会をつくることで、地域が面白くなると考えています。きっとここではお金やいっしょに働いた仲間だけでなく、まるで自分のOSがバージョンアップするような、新しい価値観が手に入るに違いありません。高齢化や過疎化により、農業の継続が難しくなっている地域で暮らす方にとって、「ワヅカナジカン援農プロジェクト」は参考になるのではないでしょうか。



匿名希望

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“奇跡のリンゴ”木村秋則さん「TPPに対抗するには自然栽培しかない」


 奇跡のリンゴで有名な木村さんは、自然栽培こそがTPPに対抗できるとして、農協を巻き込み新たなチャレンジにまい進されようとしています。

リンクより引用です。
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■木村式“奇跡のコメ”づくりに活路を見出す農協

 農産物の輸入自由化の動きが加速するなか、新たな時代を見すえ、無肥料・無農薬栽培(自然栽培)に取り組む農協が増えている。JAはくい(石川県羽咋市)やJA加美よつば(宮城県加美町)などだ。『奇跡のリンゴ』で知られる自然栽培農法の第一人者・木村秋則さんの指導のもと、6年前から自然栽培のコメづくりに挑んでいる。

■農協が減収につながる「自然栽培」に乗り出すワケ

「50年後の社会は『あなたまだ農薬・除草剤を使っているの?』っていう社会が来ると思います」と講演で語る木村秋則さん。
 これまで、農家に肥料や農薬を売って手堅く利益をあげてきた農協が、なぜ減収につながる「自然栽培」に乗り出すのか。

 そこには、「本当に安全で安心できる農産物を作り出すことが、日本の現状を打破することにつながる」との強い危機感があった。

 だが、農薬を使わないことへの最大の懸案が残っていた。水田内の除草だ。木村さんの助言をもとにタイヤチェーンを活用した独自の「チェーン除草」を実施。発芽まもない雑草を取り除き、懸案を無事クリアした。

 JAはくいのある能登半島は、本州最後のトキの生息地であった。国の特別天然記念物トキのエサは「ドジョウ」。戦後、化学農薬や化学肥料に依存する農業が盛んになるなか土壌汚染が進んで激減、1970年、トキもわずか1羽になり、保護されて姿を消した。

■43年ぶり、トキが舞い降りた自然栽培の田んぼ

 こうした苦い経験と反省から再びトキが大空を羽ばたく「昔の里山」の復活を夢みて、JAはくいの自然栽培米への挑戦は始まった。そして3年目の2013年、そのときがきた。「わずか3枚の自然栽培の田んぼを選ぶようにトキは降りた」。木村さんは、このエピソードを講演などで胸を張って披露する。

 岡山県でも自然栽培は裾野を広げている。NPOとJAグループ岡山が連携、毎年、栽培面積を増やしているのだ。木村さんはこう力説する。

「(安価な農産物が海外から大量に入ってくる)TPP(環太平洋経済協定)に対抗するには、自然栽培しかない。世界にないこの安全・安心な栽培法を広めていけば、打ち勝っていける」

取材・文/田中裕司(ノンフィクションライター。著書に『希望のイチゴ~最難関の無農薬・無肥料栽培に挑む~』など)
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(引用おわり)



達磨防人

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視点を変えることで農業は活きる… 「顧問退職、島でイチゴ作り…悠々自適より農業の現場」


 電機メーカーを退職した顧問が、ゴルフ旅行や海外旅行でも満たされなかった結果はじめたもの。それが「いちご農家」だった。

 高齢者においても、誰かの期待に応える、生きがいによって充足をえられるということである。それまで農業に一切関わっていなかった人が視点を変えれば農業に参加することができる。

 老人の新しい居場所として期待できるかもしれません。



以下、引用。
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「顧問退職、島でイチゴ作り…悠々自適より農業の現場」

(リンク)


 瀬戸内海に浮かぶ百島ももしま(広島県尾道市)で、帰島した男性が始めたイチゴ作りが広がっている。「働くことが生きがい」。

 大手電機メーカーを退職した男性が悠々自適の生活をなげうって取り組む、定年後の心境とは――。

 広島県の尾道港から船で25分。百島に藤田武士たけしさん(77)を訪ねた。藤田さんは大手電機メーカーの子会社の責任者などを経て60歳で退職、2年間、関連会社の顧問を務めた。退職後はクルーザーとゴルフの会員権を買い、魚釣りとゴルフでのんびり暮らそうと考えていた。妻と欧州旅行も楽しんだが、心が満たされない。定年とともに「生きがい」が消えたことを実感した。

 かつて3000人はいた百島の人口も当時は850人。整然と並んだ段々畑は雑木林に変わり、アサリ採りを楽しんだ海岸にはゴミが漂着していた。「何とかせにゃいかん」。幼い頃に父が戦死、母が女手一つで育ててくれた故郷への愛着が沸々と湧いてきた。


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 関連会社の顧問退職と同時に島に帰った。何ができるか、営業や商品企画を手がけた企業戦士の目で洗い直した。コールセンターの誘致を考えたが、高齢化で働く人がいなかった。漁業もすぐには難しかった。残ったのが農業だ。単価(1キロ当たりの値段)が高く、島の気候風土に合うもの。県内の店に足を運び、客の好みを観察した。

 最終的に選んだのがイチゴだった。広島県民が消費する県内産イチゴは約1・4%。客は鮮度を重視するので地産地消なら参入の余地はある。各地の栽培技術を視察、プランターにパイプを通し、水と肥料の量を一元的に管理する方法を採用した。ビニールハウス内にパイプを組み、腰を曲げて作業しなくて済むよう、高さ約1メートルの位置にプランターを置いた。

 次は販路の開拓だ。本土の大手スーパーと直接契約を結び、「瀬戸の島イチゴ~旬 鮮 朝どり直行便」と銘打って朝の船で直接運んだ。「顧客に学び、自社の技術力を調べ、流通を考える……。すべて会社で学んだこと」と笑う。

 藤田さんの呼びかけで東京や神戸から2組の夫婦と1人の男性が島に移住し、イチゴ作りを学んでいる。昨年春、島に来た花田直季さん(45)は「難しいけれど皆さん親切に教えてくれる」と話す。若い人なら「年収500万円」の農家に、高齢者なら働ける範囲で収入を――。多くの人に島に来てもらい、活気を取り戻すのが藤田さんの夢だ。

 高齢者の就労に詳しい広井良典・千葉大教授(公共政策)によると、企業人として働き続けた人たちが定年を機に、社会に貢献しようと「第二の人生」を模索する例が増えている。「人間にとって生きがいは非常に大切。退職した人たちは多くのノウハウを持っており、社会に生かす仕組み作りが必要だ」と話す。

 「定年を迎えて初めて、自分から仕事を取ったら何も残らないとわかった」と藤田さん。「働くことが楽しい。楽しみたいんですわ」。いつか車いすに乗る時のために、ハウス内は車いすでも農作業ができる設計にしてある。80歳になったら経営は後継者に譲り、一農民として、生涯現役で仕事を続けるつもりだ。(館林牧子)



匿名希望

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東京で暮らし続ける人に未来はない「金融の時代は終わった。農業をやろう。」

リンク


現代では、環境省というものがありますが、江戸時代の人には「環境」という概念はなく、日本人は田んぼのコメや海の魚を捕って食べて生きているのだから、田んぼや海は自分の一部で、自然を大事にするのは当たり前のことでした。

なんでも、東京の食料自給率は1%ほどしかなく、ほとんどの人がビルに押し込まれた会社勤めをしていますが、もともと日本人の9割は農村の子孫で、農民の遺伝子を受け継いていることを考えると、コンクリートのビルの中でサラリーマン生活をしている方がよっぽど不自然で、この妙に心が落ち着かない感情の揺れは、直接モノや自然に触れなくなったことが大きな原因なのかもしれません。

ジョージ・ソロスのパートナーとして知られ、冒険投資家としても知られるジム・ロジャーズは、安倍総理は日本を破綻させた人物として歴史に名を残すと述べた上で、「金融の時代は終わった。農業をやろう。」と述べていますが、どれだけアベノミクスで景気が一時的に回復しているように見えても、恩恵を受けているのは土建関係の企業や一部の大企業だけで、99%以上が中小・零細企業である日本では、「景気がよくなった」とマスコミやメディアがいくら盛り上げても、現状は全く変わっていません。

実際、日本は食料自給率が低く、国民は食料に関して危機感を持つべきだと政府はしつこく言いますが、もし政府が言う通り、日本の食料自給率が40%ほどしかないのであれば、スーパーに並んでいる農産物の大半は外国産ということになりますが、スーパーには十分すぎるほどの野菜や果実が並び、品質に関する不満はあまり聞こえてきません。

これは政府が自給率を「生産額ベース」ではなく、「カロリーベース」で計算して、意思的に自給率を低くすることで、食に対する危機感を抱かせようとしているからだと、「日本は世界5位の農業大国」の著者である浅川 芳裕さんは指摘しています

カロリーベースで自給率を計算しているのは世界でも日本ぐらいで、なぜこんなことをするのかと言えば、衰退する農家、そして飢える国民のイメージを演出し続けることぐらいしか農水省の役割はなく、彼らは国民の食を守るというよりは、どうすればラクに儲けらるか、天下り先の利益をどう確保するかという自己保守的な考え方で、農業の政策を仕切っています。

実際、日本の食料は余り過ぎで、日本では年間約190万トンの食料を廃棄しており、これは世界の食料援助量の約3倍に当たるそうですが、農水省のやることが無くなってきているということは、マーケットが成熟し、政府・官僚主導による農業経営が終わりに近づいていることを意味しているのかもしれません。

東京の食料自給率は1%しかないのであれば、東京の生活は田舎からの食料の提供がなければ成り立ちませんが、食料は水を含んで重たいため、流通には莫大なエネルギーが必要となります。

地方にいくら食料があっても、都会に運んで来られなければ意味がありませんが、日本人の食の流通は、外国産のエネルギーでまかなわれており、都会に住む人たちは、事実上、外国からエネルギーを買うために一生懸命働いていると言ってもおかしくないのかもしれません。



渡澤翼

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