だから、食の安全を犯すものの不正を糾弾するというのは、表に引きずりやすい現象だと思います。
しかし、その不正を糾弾しても結局根本的には解決しないという感覚があるのではないでしょうか。
つまり、今の安全欠乏からくる不正糾弾の背後には、食の安全がなぜ犯されるのかという原因が見えない「不透明感」があるように思います。
何が安全なのか→とりあえず肉体に直撃する食の安全を犯すものにはその不正を糾弾する→しかし、本当に安全を犯す原因がどこにあるのかが見えない→マスコミを頼りにしても原因構造が見えない不透明感→考えれば考えるほど社会を対象にしなければならない→しかし、社会構造が見えてこず閉塞していく
>安全を求める流れは、突き詰めると「どうしたら信頼を創り出せるか?」という流れである事がわかります。あらたな信頼の創造が普遍的に期待されているということです。>
「事実の構造」が見えるようになりたいという欠乏が高まってきているのではないでしょうか。
もしそうであれば、食においてもその事実の構造=認識を提示できていく農業生産者なり農業に参加する企業が、消費者から最も評価(≒信頼)を受けることになると思います。
>“(生産者の)顔の見える関係”といった実関係。
そういう実関係がない流通を考える場合は、消費者が直接相手に発信せずに、評価空間が形成される仕組みが必要だと思います。>
顔の見える実関係より、事実の認識を提示する空間(=評価軸が認識となる「場」)を創ることが食の分野であっても重要なのだと思います。
そして、そこが誰もが見れ評価できる「開かれた評価競争の場」となることで、顔の見える実関係を超えていくのだと思います。
麻丘東出
スポンサーサイト
