今では年間1000名以上の子どもたちがこの泰阜村を訪れるようになっており、子どもたちへの教育の面だけではなく、地域の活性化にも大きく貢献しているのが、この泰阜村のNPO「グリーンウッド」リンクである。
このグリーンウッドの取り組みには、これからの教育のかたちを考える上で大きなヒントがあるように思うので、グリーンウッドの著書『奇跡のむらのものがたり 1000人の子どもが限界集落を救う!』(辻 英之著)を要約して紹介していきたい。
グリーンウッドの泰阜村での取り組みは、「だいだらぼっち」という年間を通しての山村留学と、学校の夏期・冬期休暇での短期の単発型体験合宿の「信州子ども 山賊キャンプ」というキャンプの大きくは二つとなっている。それぞれに特長があるので、順を追って分けて紹介したい。
「暮らしの学校 だいだらぼっち」
■自給自足的な暮らしの学校
このだいだらぼっちでは、全国から集まった子どもたち(15から20名ほど)が共同生活を送りながら、地元の小中学校へと通っている。子どもたちが食事を作り、風呂を沸かし、掃除や選択など、生活の一切を自ら手がけている。
暮らしの中でケンカは当たり前。困ったことは多数決を用いないで納得いくまで話し合って解決する。
ストーブや風呂の燃料は全て薪。その巻きも許可を得て村の里山に入り、地元のお年寄りと一緒に間伐して確保する。田んぼや畑で稲や野菜を育て基本的な食材は確保し、敷地内の手作りの窯で焼いた食器でご飯を食べる。文字通り手の届く範囲での「自給自足」の暮らしを体験する。
とてもシンプルな暮らしをしているが、その日々には多くの「学び」が凝縮されている。それらを丁寧に拾い上げれば、それはまさに村の公立学校と比肩する、地域に根ざした「暮らしの学校」となる。
続いて実際どういった暮らしからの学びがあるのかについて何点か紹介したい。
■もったいないの本質
「だいだらぼっち」の子どもが手がける田んぼは2010年は約20アールになった。90歳になるおばあさんから「もう米作りをする体力はないが、手入れしないと田んぼが荒れていく。だいだらでやってくれないか」とお願いされ、これまでの倍の面積で米作りすることになった。
そして1年。子どもたちはおばあさんに教わりながら無農薬で米を育て、見事に棚田を守った。もちろん、すべてがうまくいったわけではない。無農薬栽培ということは、すなわち草とりに向き合うこと。子どもたちは決断に責任を持つことが問われる。責任に向き合えず、雑草を放置したときもあった。
悪戦苦闘しながらも、秋口にたわわに実った「だいだらぼっち」の稲。
「うまーい!」「なんでこんなにおいしいの?」
子どもたちは自分たちが育てた米に、どれだけの涙とアセと葛藤が凝縮されているかわかっている。そして同時に、これまで自分たちに食材を提供してくれた人たちに思いを巡らせるようになる。子どもたちは食材を通して、村のおじいさん、おばあさんが営んできた循環型の暮らしとその歴史の積み重ねに感動するのだ。
「お米をこぼしていたら、たぶん普通にしてたらもったいないってならないと思います。あったとしても、何円で買ったのに!というお金的な面でもったいないと思うかもしれません。
でも「だいだらぼっち」で教えられたことは、このお米一粒作るのに、どうやって誰がどれだけがんばったかという、人の思いについてもったいないと感じるということでした。それを教えてもらって、人について考えられるようになりました。」
もったいないの本質、それは「感謝」の心から生まれるのかもしれない。
■「みんなで暮らしを作っていくことから学ぶこと」
違いを豊かさへ。多様性の共存はグリーンウッドの基本理念だ。「だいだらぼっち」では、物事を多数決で決めない。一人でも反対者がいれば、その意見に耳を傾ける。仲間と暮らす上で困ったことは、何時間でも何日でも、自分たちが納得いくまで話し続ける。
多数決はもう古い。こうした自分(と自分の意見)が大切にされている経験を積みかさねること、そして相手と相手の意見を大事にするという経験を積み重ねること、それが「みんな違ってみんないい」の具体的な場面なのだ。
■「一つのお茶碗づくりから学ぶこと」
「だいだらぼっち」の子どもたちは、4月から1学期期間をかけて、毎日の暮らしで使う茶碗、皿、どんぶりなどの食器を作る。
店で格安で買ってきた茶碗はぞんざいに扱う子どもたちも、自分で作った茶碗は割らない。割れないように大切に扱っている。
「お茶碗割っちゃった、どうしよう」と相談に来た子どもは、きっと仲間の作ったお茶碗を割ってしまったに違いない。仲間がどれだけ苦労してつくっていたか、どれだけ思いをかけてつくっていたかが身にしみてわかっている。
一つの茶碗をつくる際も、持ちやすい大きさ、高台の高さ全体の形や重さなど考えることは無数にある。自分や大切な人が使うと考えるからこそ、それらを突き詰めて作る。その結果、「ものを見る目」を養ったり、「ものをつくる人の気持ち」に思いをはせるようになるのだ。
■「めんどうくさいことが楽しい~不便さこそが学びの土台」
「薪作業!」
子どもたちが企画運営する「だいだらぼっち」の説明会は毎年一月、東京と名古屋で開催される。参加者に「一年間で楽しいことは」と質問されて「薪作業!」と答えた子どもが「一年間でつらいことは」と聞かれると次のように答えた。
「薪作業!」
子どもたちは薪割りや里山からまきを運び出す作業を楽なことと思っていないことが分かる。にもかかわらず「たのしい」という。
「面倒くさいことが楽しいんだ」
そもそも、自然体験や生活体験とは「不便なもの」だ。言葉を変えれば「思い通りにならない」ということになる。自然も人間関係も暮らしも、決して自分の思い通りにはならない。そこに向き合うことは、この上なく不便だ。しかし、その「不便さ」こそが学びの土台になる。
「だいだらぼっち」の子どもたちは、楽なことは楽しいとはとらえない。自然にかかわり、仲間にかかわり、生活にかかわり、暮らしを作り出す。そういう手間がかかることや、生みの苦しみを伴うことが「楽しい」のだ。そう、自分たちの手に、生活の実感が握られていることが「楽しい」のだ。
こういった様々な学びや気づきが生まれるのも、寝食をともにし、生産活動も暮らしも一緒に行うという共同体的な生活があるからこそかもしれない。
その②へつづく。
千葉裕樹
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