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農村を活性化させる為には?

江戸時代百姓の豊かな暮らし 百姓の家計簿-百姓は商品を売って生計を立てていた-


商業的農業の発展を背景にして、江戸時代の百姓は、かなり豊かな暮らしをしていたようです。

以下「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ーリンクより引用します。

***以下引用***

著者が授業で使用していた清水書院版の歴史教科書(平成8年版)には、「農家の収支」と題して、19世紀はじめのころの江戸近郊にあった夫婦と子供一人の農家の例が掲載されている。 それによると、この農家の収入は以下のとおりである。

□水田(1町)米20石
年貢・小作料(10石)
家族の食料 (1.3石)
もち用   (0.3石)
種用    (0.5石)
会食用   (0.2石)
日雇い食料 (0.5石)
残り    (7.2石)を売却(7両2分)

□畑(5反)
麦      6石
家族の食料 (3.6石)
日雇い食料 (1.8石)
種用・その他(0.6石)

大根25000本(135貫文)
畑年貢   (3貫文)
肥料・運送費(106貫文)
残りを両に換算(4両)

 この農家は水田1町を小作して20石の米を収穫し、その収穫の50%を地主に納め、残った米10石と畑6反からの麦と大根とで生計を立てている農家である。しかもその農業は日雇いの労働者を雇って成り立っている。
 そして米10石のうちの7.2石を売却して7両2分の現金収入を得ている。さらに畑で取れた25000本の大根を売却し、その売却代金から年貢と諸費用を引いて、4両の現金収入を得ている。合計11両2分の現金収入があったわけだ。さらにこの現金収入は、次ぎのように使われている。

塩・茶・油紙代 2両
農具代     1両
家具代     1両
たきぎ・炭代  1両
衣料代     1両2分
日雇い給金   1両2分
音信費など   1両
結婚式・葬式など2両
残金        2分

 まさにこの時代の百姓は、栽培した作物の大半を売却して生計を立てているのであり、多くの現金収入を得て、それで農具以下の日用生活品を購入するだけではなく、日雇い労働者への給金の支払いや結婚式・葬式などの近所付き合いまで行っていたのだ。

 さらに新潟地方の農家に残された文書を研究した田中圭一は、興味深い例を紹介している。
 越後国(新潟県)塩沢組58ヶ村の1833(天保4)年の現金収入を記録したものが残されている。この地の中心的な村は越後湯沢町や塩沢村である。それによると、この年の58ヶ村の百姓の現金収入は以下のような内訳となる(田中圭一著「村から見た日本史」より引用)。

1万1000両 縮代
1300両 宿料・関、湯沢、三俣、二居、浅貝村の10軒の宿代
612両 出し米
510両 絹糸
300両 他国稼ぎ 120人
250両 売薬
200両 材木
150両 清酒 上州行き
150両 塗物、指物、木細工
100両 ぜんまい
 70両 山里点蝋
 30両 漆
 30両 湯治(温泉)

 この地域は越後と江戸を結ぶ街道沿いの村であり、田の面積は少なく1軒あたりの水田面積は平均2・3反という、これだけ見れば貧しい村である。しかし街道沿いという立地条件や山地であるという条件を生かして宿業や林業・木材加工や山菜の販売をするだけではなく、他地域から多量の原料を買い入れて縮織を生産販売したり、薬や酒まで販売する商業の村でもあった。これらの村が販売する米・612両に対して、販売した縮織の代金が1万1000両。江戸時代の百姓の暮らしが農業だけではなく、さまざまな手工業と商業に依拠していたことの典型例である。
 この地域の村の女性たちは、一冬に2反ほどの縮織を織り、上質のものなら金2両を得ていたという。まさに農閑期副業どころか、これが生業と言ってよいほどの状態であったのだ。

***引用終り***




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