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農村を活性化させる為には?

いち早く芸術家ら「人」を誘致、人が人を呼んで気がつけば神奈川県旧藤野町はエコビレッジに


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「西の神山、東の藤野」
芸術を柱に“人”を誘致し地域活性化
 芸術家やIT起業家を呼び込み、地元住民との絶妙なコラボレーションで地域を活性化されているのが、徳島県神山町だ(連載72回参照)。民間主導による創造的なまちづくりの努力が実り、神山町は「面白い人達」が集まる「面白い町」となっている。いまや日本一有名な町といっても過言ではない。

 そんな神山町と肩を並べるほどユ二―クな地域が東日本にも存在する。神奈川県の旧藤野町(現在は相模原市緑区)だ。芸術家などの「人」の誘致にいち早く動き、いつしか様々な分野の人材を抱える稀有な地域となった。彼らは地元の人たちとうまく融合し、結果的に地域を活性化させている。

 2007年に相模原市に編入合併したこともあり、藤野の姿は見えにくくなっているが、「西の神山、東の藤野」と呼べるものといえる。

 神奈川県北西部に位置する旧藤野町は、県民の水がめである相模湖を抱える山間の町。東京と山梨に接する県境の地にあり、里山が広がる自然豊かなところ。人口は約1万人。JR中央線高尾駅から2つ先が藤野駅で、新宿から電車で1時間ほど。町の東西を中央高速道と国道20号線が走るなど、交通の便はよく、しかも、都心から近い。そんな藤野の特産品はゆず。ちなみに、神山町の特産はスダチだ。

 豊かな自然と地の利を兼ね備えた藤野に戦時中、著名な芸術家たちが疎開した。藤田嗣治や長与善郎、荻須高徳、伊勢正義、佐藤美子といった人たちだ。彼らの多くがそのまま藤野に住み着き、芸術村を作ろうという夢を語り合ったという。

 こうした歴史的な経緯もあり、藤野町は地域活性化の柱に「芸術」を据えた。「アートの棲むまち」を掲げ、施策を練ったのである。そして、1988年から神奈川県とともに「ふるさと芸術村構想」という事業を開始した。芸術イベントの開催や芸術活動の拠点の建設などである。野外に30作以上もの作品が展示され、訪れる人が増えた。地元の人たちによる芸術活動も公民館を拠点に活発化した。

 芸術村構想の具体化により、全国から芸術家たちが創作の場を求めて藤野にやってくるようになった。そして、この地に魅せられてそのまま移り住む人も現れた。

 こうした動きをキャッチした藤野町は「人の誘致」を政策として掲げ、移住希望者の相談に親身になって応じるようになった。当時は工場や企業、観光施設などの誘致に取り組む自治体がほとんどで、「人の誘致」による地域活性化は独自路線といえた。中心となって奔走したのが、町の若手職員だった。

芸術家の卵が本当に町を豊かにするのか?
町長は信頼して任せ、若手職員たちが奮闘
「県境にある藤野にはもともと外の人を受け入れる包容力や文化、風土があります。嫌だと言いながらもきちんと受け入れるのです」

 こう語るのは、町の担当職員だった中村賢一さん。当時、「人間を誘致することで本当に藤野が豊かになるのか」といった疑問の声も寄せられたという。なにしろ、芸術家といっても卵が多く、孵化するかどうかも本人にさえわからない。それでも中村さんらは相談に来る人を選別せず、一人ひとりに真摯に対応した。

「当時の町長が職員を信頼して任せてくれる方だった。細かなことに口出しせず、それでいて何かあったら自分が責任をとってくれる人だった。あの町長のおかげで思いっきり仕事ができた」と、中村さんは当時を振り返る。藤野町役場には変わり者職員がたくさんいて、しかも、生き生きと仕事をしていたという。

 藤野は「アートの棲むまち」として一部の間で知られるようになっていった。役場職員の面倒見の良さもあり、外国人の移住者や滞在者も増えていった。芸術家から始まった移住の波はより幅広いものへと展開していったのである。

 そうした展開の口火を切る存在となったのが、NPO法人「パーマカルチャー・センタ―・ジャパン」(PCCJ)の開設である。パーマカルチャーとは、「全て生物がより豊かに、持続的に生きていけるような環境をつくり出していくためのデザインと実践の体系」をいう。オーストラリアのビル・モリソンという人が始めた自然と調和した生活と生き方の提唱と実践である。そのパーマカルチャーの本部施設と農場が1996年に藤野の里山に開設された。きっかけはこうだ。

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