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農村を活性化させる為には?

「農業生産」と「贈与」

「農業生産」と「贈与」
農業を市場経済の中の「生産」として捉えた時に、現代人はどんなイメージをもたらすか?

市場経済における農産物は工業生産同様に「品質(見た目)」や「量産」が求められる。
自然を対象としている以上、安定供給は無理な話であり、現実的には農業の機械化や効率化の速度を越えて生産者を圧迫している。
生産者は単価の下落を補うために生産者あたりの生産面積を増やす事で、農業の持っている本来の「生産する喜び」を、単純労働のネガティヴなものに落ちている感が否めない。

本来、農業における「生産」とは「自然からの贈与」という意味がある。
贈与の返礼としての労働(活動)であったことから、現代の農業における「生産」とは、真逆のものとなっている。

よく「自然の恵み」というワードが商品PRに使われる事が多いが、観念的な理解に留まっている事が多いということだ。


(以下引用)
【ぼくが農家になった訳】
「第7回 贈与の返礼」
橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営
淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

(抜粋引用)
「農業に興味を持っている若い世代の人たちが増えていると思うんですが、
なんででしょうか?」というお題でした。

農業における「生産」とは「自然からの贈与」を意味している。
我々の「食べ物」とは本来、無料である。
例えば鶏は再生産するので、前回の「鶏を飼う」で書いたように、飼料にする植物の種をとって翌年また蒔けば、肉や卵は永遠に無料である。
そのような「自然からの贈与」に対して、我々は「無償の労働」で返礼する。
農業について考えるとき、ここで錯誤してはならないのは、労働は農産物を生産するためではなく、「贈与の返礼」の形をとらなければならない、ということである。おそらくここが岐路であろう。

「贈与され贈与するというネットワーク」、それは「純粋な消費者」というものが構造的にリンクできない自然への「畏怖」や「礼節」である。
消費者が消費する「商品」は、切り取られた「断片」であって、それらは集積しても「連続」しない。
今の若い世代の人たちが興味を持つ「農業」とは、おそらくこの「贈与され贈与するというネットワーク」の「連続」、あるいは「循環」のことであろう。


ここで「産業としての農業」について。
戦後、日本の産地の農業は、右肩上がりの経済の発展と人口の増加に同調し、
近代化とともに発展してきました。
しかし経済の発展がもたらす集中化による人件費に対する相対的な農産物価格の下落は、農業の機械化や効率化の速度を越えて生産者を圧迫しています。 
加えて単価の下落を補う生産者あたりの生産面積の増加は、農業の持っている本来の「生産する喜び」を、単純労働のネガティヴな増加という形で損なってしまいました。
そのような形で損なわれた「生産する喜び」は後継者の学習意欲を棄損するという「目に見えない」経路をとって生産者の高齢化、後継者不足、休耕田の増加、災害に弱い治水という「目に見える」形で表面化しています。

現在、急速に過疎化が進む日本の山沿いの集落は古くから、山の斜面に棚田を造り、山林や川と共存しながら集落を形成してきました。
そこには人間の「等身大の営み」が、「百姓」という百の仕事をこなす、集約された「知恵」として蓄積されています。
「百姓」は狩猟し、採集し、飼育し、栽培し、加工してきました。
そして、その「自然からの恵み」を交換し、贈与することによって「自然からの恵み」に対して返礼してきました。
そこでの「必要以上に多く働き、良く作り、丁寧に田や山林を管理する」というオーバーアチーブ、いわば「善意」がかろうじて今の農業を支えています。

日本の人口は20年後には、現在のおよそ70%になる予想です。
高齢化の進む社会で農業の大規模化は、国の農業全体として、一見効率が良いように見えますが、経済軸に支えられた「大規模産地農業」からは、おそらくこの「善意」は出てこないでしょう。

里山の農業、「小規模中山間地農業」「生産する喜び」を再評価し、これからの農業に繋げていくことは、未来の日本の社会に「善意」をもたらす基盤となるものになるであろうと確信して、今回のお題に補完として応じたいと思います。
(引用終り)




峯川道明
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